人の話を聞きながら、実際には光源などないのに、わずかに目を細めている人がいます。自分でも同じことをしていると気づくことがある。物理的な刺激がまったくないところで、光への反応の身振りだけが再生されている。この身振りが先にあって語がついてきたのか、語が先にあって身振りを呼び戻しているのか、順序は分かりません。ただ、身体のほうが言葉より正直に何かを認めている、という感じは残ります。
認知言語学の枠組みでは、こうした事態は身体経験から抽象領域への写像として説明されます。光量が過剰で視覚が正常に働かなくなる、という具体的な事実が、対人的な直視のしにくさに写される。写像で保たれるものを数え上げると、少なくとも三つある。強度が過剰であること。受け手の側の器官が耐えられないこと。そして、光源には何の意図もないこと。
三つ目が効いています。「きつい」「痛い」といった語は、多かれ少なかれ加害の構図を含みます。誰かが何かをして、こちらが被る。この語は含まない。光は照らしているだけで、こちらの目が閉じるのは光の責任ではない。だから相手を責める成分をまったく持たずに、相手の強度だけを認めることができる。責任の所在を受け手側に置いたまま賛辞を成立させる、という点で、かなり特異な設計をした語です。
ここから羨望や引け目の含みが出てくるのだろう、と書きたくなるのですが、そう言い切れるか自信がありません。それが写像に最初から含まれていたのか、後から付いた含みなのか、決める手がかりがない。うまく言えないままにしておきます。ただ、写像には非対称があるとまでは言えそうです——明るいのは向こう側で、暗いのはこちら側。この明暗の配分が、引け目の生えやすい土壌にはなっている。土壌があることと、そこから必ず生えることは別ですが。
明暗という対立自体が、価値づけの土台として広く使われていることも関係していそうです。明るい見通し、暗い過去、先が見えない。上下や前後と同じように、明暗は抽象的な評価を運ぶ骨組みとして働いている。その骨組みの上に立っているからこそ、光の過剰を言う語が、人物の評価にすんなり転用できる。ただし、この骨組みがどこでも同じ形で使われていると決めてかかるのは危ういでしょう。明るさに肯定的な価値を置く配分が言語や文化を越えて一様かどうかは、確かめずに言えることではありません。ここでは、日本語の中でその配分が働いている、という範囲にとどめておきます。
写像が生きている証拠として挙げられるのは、周辺の語彙まで一緒に移動していることです。目を細める、目を逸らす、直視できない、光の下に出る。どれも物理的な光の場面でも、対人的な場面でも、そのまま使える。単語一つではなく語彙群ごと引っ越しているとき、その比喩はまだ死んでいないと判断されます。そして、その語彙群を呼び込むということは、書き手が視点人物を暗い側に立たせるということでもある。三人称の語り手にこれを言わせれば、語り手自身が誰かに引け目を感じている人物として立ち上がってきます。自覚せずに使えば、地の文のほうが勝手に卑屈になる。