文章の助言には、一文を短く、修飾は少なく、長い名詞句は避けよ、という定番があります。どれも間違ってはいないのですが、共通して困るのは、閾値を教えてくれないことです。どこまでが短いのか、どこからが長いのか。避けるべき理由も、読みにくいから、としか言われない。助言はたいてい、守れているかどうかを自分で判定できる形をしていません。判定できる形に直すには、避けよと言われている当のものを一度数えてみるほかありません。
と・ざ・さ・れ・た・と・び・ら。読み下すと八拍あります。動詞の受身形に過去の助動詞が付き、それが名詞を修飾する。構造としては小さな節を一つ抱えた名詞句で、文の中では主語にも目的語にも補語にも立てる。問題は、この八拍が一文に入ったとき、その文の残りがどう変形させられるかです。語の意味ではなく、長さそのものが持つ効き目を数で見ておくと、使いどころの判断が速くなります。
計量文体論では、文の長さを文字数で測ることも、拍で測ることもします。日本語の場合、漢字を使えば文字数は縮みますが、拍は縮みません。表記を変えても読み上げの時間は変わらないからです。八拍の名詞句は、それだけで平均的な短文の三分の一から半分に相当します。そしてこの長さは、文長を押し上げる以上に、読点の位置を強制する。修飾節を抱えた名詞句の直後に述語が続くと、読み手は節の切れ目を探して一度立ち止まる。書き手が読点を打たなくても、読者は打つ。長い名詞句は句読法を自分で連れてきます。もう一つ、拍で測るか字で測るかの選択には副次的な効果があります。字で測れば、漢字の多い文章ほど短い値が出る。拍で測れば、表記に関係なく同じ値が出る。同じ原稿でも、どちらの物差しを当てるかで長い文と短い文の順位が入れ替わることがあります。推敲でどこを削るかの判断は、物差しの選択から先に決まっている。
語彙密度という指標もあります。一般には、内容語の数を語の総数で割った値として定義されます。この句を数えると、内容語は閉ざすと扉の二つ、それに対して機能語が受身と過去の二つ。密度としては特別高い値になりません。にもかかわらず体感は重い。ここに指標と体感のずれがあります。重さを作っているのは情報の量ではなく、述語を一つ余分に処理させることのほうだった——読者の負荷は語の種類より、節の入れ子の深さに従って増えます。密度が低いのに重い句は、要するに、少ない情報のために手続きを一段多く踏ませている句です。
もう一つ、計量文体論がよく使う指標に漢字含有率があります。表記された文字のうち漢字が占める割合で、文体の硬さの目安として扱われる値です。この名詞句は六文字のうち漢字が二つで、およそ三分の一。ところが「閉じた扉」に縮めると四文字中二文字となり、割合は半分まで上がります。拍を削ると字面はかえって黒くなるわけです。長さと黒さは別々の指標で、同時に下げることはできません。読み上げの時間を切りつめるか、紙面の見た目を軽くするか——どちらを優先するかは、その一行が音として読まれるか、目で走査されるかによって変わります。台詞の中と地の文とで最適な形が食い違うのは、この二つの指標が別方向を向いているからです。
同じ内容を短くする道はあります。「閉じた扉」なら六拍、「錠の下りた戸」なら七拍。逆に、句をやめて文にする手もある。「扉は閉ざされていた」と述語に立てれば、その情報は新しく提示されたものとして扱われます。名詞句のまま置けば、すでに了解済みの事物として扱われる。どちらが正しいということはなく、その扉の閉鎖が読者にとって初耳なのか既知なのかで決まります。初耳の事実を名詞句に畳み込むと、読者は聞いていない話を前提にされたことになり、わずかな置き去り感が残る。拍を削る判断と、句にするか文にするかの判断は、別々に下す必要があります。
実務の目安としては、一つの文に修飾節つきの長い名詞句を二つ入れないこと。経験的には、二つ目が入った時点で文の骨格が見えなくなり、読者は主語を探して先頭に戻ります。三つ入れば、そこはもう読まれていない。そして同じ句を作品内で繰り返す場合、二度目以降は拍を削るか、視点の側から言い換えるほうがいい。同じ八拍が三度出てくると、読者はその句を読まずに図像として飛ばすようになる。定型化とは、意味が古びる以上に、長さが記憶され処理を省略される現象です。