も、え、あ、が、る、よ、う、な。拍で数えると八つあります。「赤い」は三拍、「静かな」は四拍、「灼熱の」は五拍ですから、連体修飾語としてはかなり長い部類に入る。八拍という長さが実際に何を意味するかというと、読者が修飾される名詞に到達するまで、八拍分待たされるということです。日本語は修飾語が名詞の前に来る言語なので、待ち時間は修飾語の長さでそのまま決まります。この単純すぎる事実から始めて、どこまで行けるか試してみます。
八拍の内訳を見ると、待ち時間の性質がわかれてきます。前半の五拍で複合動詞が完結し、開始と上昇方向を持った像がいったん立ち上がる。ところが残りの三拍が、その像に「実物ではない」という札を貼ってしまう。読者は五拍かけて作ったものを、三拍で括弧に入れ直すことになります。作らせてから取り下げる——比況の形式がやっていることを拍の配分で言えば、そうなります。同じ八拍でも、内訳が五と三に割れているかどうかで、読者の作業量は変わる。
前半を削る道もあります。「燃えるような」なら、も・え・る・よ・う・な の六拍。八拍との差は二拍で、手放すのは「上がる」が抱えていた開始点と方向です。炎がすでにそこにあるのか、いま立ち上がったばかりなのか。感情に掛ける場合、この二拍が運んでいるのは温度ではなく時間の情報になります。長く続いてきた状態を書く場面で八拍のほうを選ぶと、修飾語だけが立ち上がりを主張して、文の中身と食い違う。逆に、前の段落まで平静だった人物が急に変わる場面なら、二拍の投資は確実に回収できます。修飾語の予算は、長さそのものではなく、長さが運んでいる情報がその場面に要るかどうかで決めるものです。二拍は短い。短いぶん、要らない場面では書き手も気づかずに払い続けます。
取り下げの回数は、予算として管理できます。試しに「燃え上がるような怒り」を数えると十一拍、比況を外した「燃え上がる怒り」は八拍です。三拍を節約して失うのは、実物ではないという断りだけ。断りが要る場面は、実際にはそう多くありません。怒りが本当に燃えているわけがないことは読者も承知しているので、断りを省いても誤読は起きない。にもかかわらず比況を足したくなるのは、書き手の側に、言い切ることへの怯みがあるからです。三拍の増分は、その怯みの価格だと考えると始末がつけやすくなります。もっとも、払う値打ちのある場面もあります。実際に火が出ている場面で同じ語を使えば、断りを省いた側は火事の描写として読まれる。そこでは三拍が、誤読を防ぐための保険料に変わります。比況を足すか外すかは好みではなく、その場面に本物の火があるかどうかで決まる。
拍と表記の字数は、いつも一致するわけではありません。「灼熱の」は表記で三字ですが、拍で数えれば、しゃ・く・ね・つ・の の五拍。「赤い」は二字で三拍、「静かな」は三字で四拍です。漢字を含む語は、たいてい字数のほうが短くなる。ところが見出しに立てた句は、燃・え・上・が・る・よ・う・な の八字で、拍のほうも八拍。仮名の比率が高いために、紙面が取られる幅と、音として占める長さが揃ってしまいます。行の上でも耳の上でも同じだけ場所を要求する修飾語だ、ということです。漢語の修飾語なら、視覚的には短く畳んでおいて音では長い、という配分が使えます。この句にはその逃げ道がない。削りたければ語そのものを替えるほかありません。字数と拍数が揃った修飾語は、行末の処理でも扱いにくくなります。組んだときに端で折り返されやすく、折り返された比況句は、下の行で唐突に名詞へ着地する。
位置を変えると、拍数は変わらないのに効果が変わります。「燃え上がるような怒りが、彼女の言葉を短く切った」と、「彼女の言葉を短く切ったのは、抑えの利かない怒りだった」。前者は待ち時間を文の頭に置き、後者は文の末尾へ回している。読者が保留を抱えたまま進む区間が、冒頭にあるのか結末にあるのかの違いです。同じ長さの修飾でも、抱えさせる場所によって、それが緊張として働くか、余韻として働くかが分かれる。
頻度の話で閉じます。この種の長い比況句は、同じ文章の中で繰り返すと急速に効かなくなる。二度目からは、読者が比況の形式を見た時点で後ろに来る名詞を先読みしはじめるからです。先読みされた修飾は、修飾として働かない。一本の作品でこの種の句をいくつ使えるかを、章単位ではなく段落単位で見積もっておくと、削るときの判断が速くなります。拍を数えるという作業の実務的な出口は、そこにあります。