漢文訓読の系統では「ごとく」、和文の系統では「やうに」。近代の書き言葉は、比況の形式を二つ抱えたまま始まりました。どちらを選ぶかは、文章の格を決める選択でもあった。硬い論説には「ごとく」、語りには「ように」。この住み分けが崩れて片方へ寄っていく過程が、そのまま口語文体の成立に重なっています。
二つの形式は、出自からして層が違います。「ごとし」は漢文訓読で「如」や「若」に当てられた語で、訓読体の語彙が明治の論説文へ流れ込んだとき、一緒に運ばれてきました。その格式は、漢文の権威から借りたものです。いっぽう「ように」は、様子の様を語源とする形式名詞に助詞が付いた形で、もとをたどれば名詞にあたります。片方は活用する語、もう片方は名詞から文法化した語。この違いは働き方にも出ます。名詞から来た形式は、その名詞の中身——どんな様子であるか——を読者に埋めさせる余地を残す。訓読体の語のほうは、そこを埋めさせないまま関係だけを示して通り過ぎます。似ているという事実だけを告げて、似方は問わない。事実だけを渡す言い方が格式を帯びやすいのは、比況にかぎった話ではないでしょう。
二葉亭四迷が『あひゞき』を訳したのは一八八八年で、ツルゲーネフの一篇を言文一致で移そうとした試みとして知られています。自然描写に費やされた分量と細かさが当時の読者に与えた印象については、後年の回想がいくつも残っている。翻訳を通じて直喩の使われ方が変わったという説明もよく見かけますが、これは検証の難しい主張なので断定はしません。ただ、訳文を読んでいて感じるのは、比況が景物の輪郭を決めるために働いているということです。何かに似せることで、まだ日本語の側に定型を持たない風景を立ち上げている。
同じ時期の書き手が一様に口語へ移ったわけでもありません。森鷗外の『舞姫』は一八九〇年に雅文体で書かれ、夏目漱石が『吾輩は猫である』を発表するのは一九〇五年です。十五年ほどのあいだに、日本語の書き言葉は複数の層を同時に持っていた。比況の形式は、その層のどこに立っているかを一語で示す標識として使えたはずです。文語の形を一つ混ぜるだけで、その文は語りの位置から一段上がる。逆に言えば、口語の側で比況を重ねるほど、語り手は場面に近づいていく。今日の書き手が受け継いでいるのは、この選択肢が一つに減ったあとの言語です。減った以上、格を上げ下げする仕事は、比況の形式ではなく別の要素が引き受けるしかありません。
火で情念を語る型そのものは、近代よりずっと古くからあります。和歌では、思ひという語の末尾の音に火を掛ける言い方が定型になっていて、恋を火として書く準備は千年前に整っていました。ただし古典で使われるのは、燃ゆ、焦がる、といった短い動詞です。上昇の向きを複合動詞で明示する形のほうは、近代の散文でよく見かけるものになる。素材が古く、語形が新しい。この組み合わせが、この句の込み入ったところです。読者は火という古い連想を即座に受け取りますが、そのあとで、上へ立ち上がるという指定を処理しなければならない。連想は速く、指定は遅い。速度の違う二つが、一つの句の中に同居しています。古い連想だけで読み流されると、この句は炎という記号を置いただけの飾りになる。指定のほうまで読者に届いて、はじめて句が働きます。
ここで疑問が残ります。比況そのものは古くからありました。『枕草子』にも『源氏物語』にも「〜やうなり」は出てきます。だとすれば近代に変わったのは頻度ではなく、使われる位置のほうかもしれない。名詞を修飾する連体の形と、動作を修飾する副詞の形とでは、読者に要求するものが違うからです。連体形なら、比況は名詞という受け皿へ流し込まれて完了する。ところが副詞形になると、笑うなり立ち上がるなりという動作の様態を炎に似せなければならず、読者は像をいったん組み立て直す必要が出てきます。
この一拍の負荷が、副詞用法の性格を決めていると思います。連体形が像を渡すのに対して、副詞形は像を作らせる。だから同じ語でも、副詞で使うと文の速度が落ちる。速度を落としたい箇所——場面の転換点や、感情が動作へ漏れ出す瞬間——にだけ置けば効きますが、それ以外の場所では読者の足を止めるだけになります。文語の「ごとく」が今も演説や標語の中に生き残っているのは、この負荷を格式で押し切れるからでしょう。訓読体の語は、像を作らせないまま権威だけを渡すことができる。口語の副詞形には、その逃げ道がありません。負荷を引き受けると決めた上で置く語です。