会話が終わったあと、人物をその場から動かさなければなりません。立ち上がる、椅子を戻す、荷物を持つ、扉まで歩く、開ける、出る。律儀に書けば六行かかり、そのほとんどは読者にとって既知の手続きです。読み飛ばされる六行は、書かなかった六行より悪い。退場は必要だが、退場の描写に紙幅は与えたくない。この矛盾を一行で解くために用意された道具のひとつが、この言い回しです。使われる理由は美しさではなく、圧縮率にあります。
引き受けている機能は、少なくとも三つあります。第一に、視点の切断。背中を向けた瞬間、表情という情報源が閉じる。読者は相手の内心を推測するしかなくなり、その推測がそのまま余韻になります。第二に、時間の圧縮。回転から退出までの手続きが省略され、場面はそこで切れる。改行や空行と組み合わせれば、場面転換の合図としても働きます。第三に、感情の非明示化。怒っているとも泣いているとも書かずに、強い感情があったことだけを残せる。三つとも、書き手が情報を出さない方向の機能である点が共通しています。
出さなかった情報は、しかし、どこかで清算されます。表情を見せてもらえなかった読者は、その人物が次に現れる場面で答え合わせをしようとする。だから、この一行で章を閉じておきながら、次章の冒頭で同じ人物の内心を地の文でさらりと説明してしまうと、遮断は空振りに終わります。逆に二章、三章と間を空けてから再登場させれば、読者はその間ずっと保留を抱えたままになる。遮断の効き目は、この句そのものにではなく、次にその人物を出すまでの距離に宿っている。連載であれば、その距離は話数として数えられます。何話あとに戻すかを決めてから一行を置くかどうかを決めるほうが、順序としては正しい。
使いすぎると、去る=翻す、が自動化します。読者は動作を思い描かず、場面転換の記号として読み飛ばす。もうひとつ、絵の整合という問題もあります。翻るのは布です。裾の長い衣、外套、白衣、制服のスカート——面積のある布があってはじめて、この語の視覚的な根拠が立つ。丈の短い上着とジーンズの人物に当てると、語だけが別の時代から来て浮きます。速度の含意も強く、ためらいなく即座に、という条件がつく。長く迷った末に去る人物や、足を引きずっている人物には、そもそも合いません。条件が多い語だという自覚があれば、誤用はかなり減ります。条件を数え上げてみるのは、一度やっておく価値のある作業です。布があること、速いこと、迷いがないこと、去る先が決まっていること。四つのうち一つでも欠けている場面で使うと、読者は理由を言えないまま違和感だけを持ち帰ります。
置く位置にも、実務上の帰結があります。台詞の直後に置けば、その台詞は自動的にその場面での最後の言葉になる。言い返す機会は消え、残された側の反論は行き場を失います。まだ会話を続けたい場面でこれを挟んでしまうと、読者は会話が閉じたと判断し、後続の台詞を余った部品として読む。逆に、言わせたくない台詞があるとき——書き手の側にまだ答えの用意がない問いを人物に投げられたとき——この一行はきれいな逃げ道になります。便利な逃げ道ではありますが、同じ逃げ方を二度させると、その人物は答えない人物として読者の中に固定されます。固定してよいと決めているなら手段であり、決めていなければただの癖です。
置き換えの方針は二つあります。ひとつは、退場動作をひとつだけ具体に落とすこと。椅子の脚が鳴る、傘の留め具を外す、伝票を掴む。物がひとつ動くと、人物の状態は読者の側で組み上がります。動作そのものより、動作が立てた音や、置き去りにされた物のほうが記憶に残る。もうひとつは、視点を残された側に移すこと。去る人を描かず、残った側が見ているものを書く。閉じた扉、揺れているカーテン、冷めていく湯気——退場そのものの描写を放棄して、退場の結果だけを置く方法です。前者は動作の解像度を上げ、後者は場面の重心を移す。目的が違います。
この句を使うかどうかは、文章の巧拙ではなく、その場面で情報を遮断したいかどうかで決まります。表情を見せたくない、理由を言わせたくない、続きを読者に預けたい。そう判断したうえで選んだのなら、これは正しく機能する道具です。判断を経ずに手が先に動いたときだけ、同じ一行が惰性になる。道具の古さより、選択が省略されたという事実のほうが読者に伝わってしまいます。