面接の席で、それまで書類に目を落としていた相手が顔を上げ、上体が数センチ前へ出る。言葉はまだ何も変わっていません。それでも話している側には、空気が動いたことが伝わります。逆に、相手が背もたれへ体重を預けた瞬間、こちらは自分の話が終わったことを知る。数センチの前後移動が、了解の量を運んでいる。この対応関係は、誰かに教わって覚えるものではなさそうです。
認知言語学では、抽象的な事柄が身体経験の型を借りて理解されると考えます。レイコフとジョンソンが『レトリックと人生』で示したのは、比喩が言葉の飾りではなく思考そのものの構造だという見方でした。関心を距離で測る言い方は、その典型のひとつです。近づく、寄る、遠ざかる、距離を置く、一線を引く——対人関係の語彙の多くが空間語からできている。前方は視野の中心であり、進行方向であり、手の届く範囲でもあります。だから前へ出るという動作は、見る・進む・掴むという三種類の関与をまとめて含意できる。空間から抽象への写像が、ここでは一対三で働いています。
ただし、同じ「前」がいつも同じ方角を指しているわけではありません。時間の語彙へ移すと、向きが裏返ります。三日前、戦前、名を呼ばれる前——日本語の「前」は、時間軸の上では過ぎた側を指します。空間では進行方向を、時間では背後を。ひとつの語が正反対の二つの写像を引き受けていることになりますが、実際に混乱が起きることはありません。空間の前は身体の向きを基準に測られ、時間の前は出来事の並びを基準に測られる。基準が別なら、同じ語で足りるということでしょう。この句が借りているのは、前者の系統です。身体の向きを基準に取る以上、そこには必ず向いている主体がいて、主体の外側に対象がある。時間の側の「前」を借りていたら、これは懐旧の語彙になっていたはずです。
ところが同じ姿勢が、別の語で表されると評価が反転します。前のめり、という言い方は、熱意ではなく制御の喪失を指すことが多い。前のめりに倒れる、前のめりの議論。重心が支持基底面から出てしまった状態です。一方こちらの言い方には、支点が残っている。机に手をつく、手すりを掴む——支えがあるから、前へ出ても倒れない。関与の深さと自己制御が両立している状態こそが、この句の含意です。物理的には同じ傾きでも、身体のどの部分を言語化するかで、賞賛にも失態にもなる。
ここには反論の余地があります。姿勢が心を表すという方向だけでなく、姿勢が心を作るという方向もあるからです。身体の変化が先にあり、それを解釈するかたちで感情が生じるという議論は、ジェイムズやランゲの名とともに古くから知られています。どちらが先かは決着していませんが、書き手にとって重要なのは、順序を選べるという事実のほうでしょう。心の説明を書いてから姿勢を書くか、姿勢だけ書いて心には触れないか。後者を選ぶと、読者は自分の身体感覚を使って解釈を組み立てます。同じ情報でも、渡し方が変われば読者の関与の深さが変わる。
目的語を外すと、写像はもう一段先へ進みます。捜査に乗り出す、事業に乗り出す、仲裁に乗り出す。この形になると主語は身体を持たなくてよくなり、官庁でも企業でも構わなくなる。残っているのは動詞だけで、意味は着手と関与のほうへ移っています。とすれば「身を」という目的語は、この動詞を身体の領域へ繋ぎ止めておく錨のようなものです。外せば抽象へ飛び、付けておけば具体に留まる。ひとつの写像の二つの段階が、目的語の有無という形で今も並んで残っている。注意しておきたいのは、抽象側の用法が必ず「に」で対象を取ることです。何に乗り出したのかが、文の中に書かれずには済まない。身体の側の用法では、その位置が空いたまま放置されがちです。空いていても文は壊れませんが、壊れないぶん、書き手は空けたことに気づきません。
使いすぎれば、この句は「興味を持った」の記号に退化します。避ける手のひとつは、写像を一段ずらすことです。前へ出るのを途中で止める、手をかけたまま動かない、といった不完全な動作にする。あるいは、相手ではなく机の上の一点に向かって出る。方向を具体化すると、関心の強さだけでなく関心の宛先まで指定できます。距離の比喩がまだ使い切られていないのは、この二重性があるからです。強さは誰でも書ける。宛先を書けるかどうかが、姿勢の描写を場面の情報に変えます。