検索窓に「身を竦ませる」と打ち込んで、一件も返ってこなかったことがあります。同じ文書の中には「身がすくむ」も「思わず身を竦めた」も確かにありました。完全一致の検索が取りこぼすのは当然です——文字列としては別物なのだから。ただ、この当たり前をもう少し押してみると、読み手がこの言い回しを受け取るときに何をしているのかが、裏側から見えてきます。
全文検索の実装では、この取りこぼしを形態素解析で埋めます。文を「身/を/竦ま/せる」のような単位に切り、活用語は基本形に戻して索引に登録する。「竦む」で正規化してしまえば、助詞や活用の違いは吸収され、先ほどの三つの表現は同じ見出しの下に集まります。機械的な処理としてはここで片づく。引っかかるのはその先です。助詞が「を」か「が」か、末尾が「せる」か「める」かで、力を及ぼしている側が入れ替わる。「その一言が男の身を竦ませた」では、動かしているのは外にある何かです。「男は身を竦めた」では、当人が自分でそうしている。解析器はこの差を活用形と格助詞の情報として保持してはいますが、誰が主導しているかの反転としては扱いません。索引の上では、両者はほとんど同じ語です。
切り方そのものにも決めの問題があります。この表現を、辞書に登録された一つの単位として扱うのか、独立した語が三つ連なったものとして扱うのか。慣用的な言い回しをひとまとまりで索引に入れると、内部の一語だけを差し替えた変形が拾えなくなる。逆に細かく分解すれば変形は拾えますが、まとまりとしての意味は消えて、ただの部品の同居になる。粒度をどこに置くかは検索の設計者が決めるしかなく、そして正解はありません。読む側も同じ選択を毎回している——見慣れた塊として一息に通過するか、部品に分けて意味を組み直すか。書き手がその分岐に介入できるのは、塊を少し壊したときだけです。
検索の設計には、取りこぼしの少なさと、余計なものを拾わない精度との取引があります。前者を再現率、後者を適合率と呼び、片方を上げれば片方が下がる。正規化を強めれば「身がすくむ」も「思わず身を竦めた」も同じ見出しの下に集まりますが、その網は「肩をすくめる」のような、力の向きが違うものまで一緒に掬い上げます。厄介なのは、この取引が読む側にも成立していることです。粗く受け取れば取りこぼしは減り、そのぶん、外から加えられた圧力なのか自分で身を縮めた選択なのかという区別は溶ける。書き手が助詞と語尾で示した差は、目の粗い網には残りません。
参照の局所性という考え方も借りておきます。計算機は、直前に使ったものが近くでまた要ると見込んで手元に置き、予想が当たれば速く応じる。読む側にも似た働きがあるように見えます。恐怖の場面でこの身体反応を三度書けば、二度目からは手元にある像がそのまま返され、三度目はほとんど情報を運びません。ただ、ここで自分の観察に異議を唱えておきたい。反復が効く書き方は確かにある。二度目に「今度は竦まなかった」と書けるなら、一度目は消費されずに参照点として残ります。差分が意味を持つとき、繰り返しは冗長ではなくなる。
だとすれば、問うべきは、この言い回しを使うか避けるかではありません。それを索引に入る形——後で参照される点——として置いたかどうかです。一度きりの装飾なら、読者は読み流し、手元には何も残らない。二度目の変化を用意したときだけ、最初の一行は消えずに残ります。