風邪をひく、という言い方の前で、しばらく足が止まりました。熱が出て寝込むという事態のどこにも、何かを手前へ寄せる動作は見当たりません。籤をひく、線をひく、辞書をひく。ここまではまだ、手が対象を自分の側へ動かす像でつながっています。けれど風邪だけは、寄せているのが誰なのかがはっきりしません。風邪の気を体の内へ迎え入れる、という説明がなされることが多いようですが、その説明を受け取ってもなお、腑に落ちきらない何かが残ります。落ちないまま、字の側から見てみます。
「引」は弓と縦の一画からできている字です。弦を引き絞る形を写したものだという説明が広く行われています。ここで気づくのは、弦を手前へ引き絞ったとき、弦そのものは長く張られるということです。動作の方向は手前へ、しかし結果として生じるのは伸長です。実際、日本語でも「引き延ばす」「引き伸ばす」のように、この字は長くのばす意味を担っています。手前へ寄せることと、長くのばすこと——正反対に見える二つが、一つの動作の別々の面として、はじめから同じ字に同居していたことになります。
和語の側はさらに広がります。ことを弾く、臼を挽く、車を曳く、といった言い方があります。表記は分かれていますが、音としてはすべて同じ一語です。弦をかき鳴らす動作も、石臼を回して穀物をすりつぶす動作も、荷を後ろに従えて進む動作も、共通しているのは接触を保ったまま連続的に動かすことでしょう。瞬間的に叩くのでも、離して投げるのでもありません。触れつづけたまま、位置だけを変えます。漢字が意味ごとに書き分けたせいで別語のように見えますが、書き分けは後から与えられたものだと考えられています。
そこまで来ると、潮がひく、熱がひく、という言い方が邪魔になります。ここでは対象が自分から遠ざかっています。方向が逆です。自分の観察が壊れかけますが、壊れきりはしません。接触を保ったまま連続的に動く、という芯だけを残して、どちら向きに動くかは文脈が決めている、と考えれば通ります。潮は岸との接触を保ったまま退き、熱は体との接触を保ったまま薄れていきます。方向は語の中になく、外にあります。
もう一つ、数を扱う場面でも同じ動詞が働いていることを思い出しておきます。たとえば、五から三をひく場合です。ここで動いているのは物ではなく量ですが、構図は変わりません。全体という一つのまとまりに手を掛けたまま、その一部を連続的に外へ移していきます。差し引く、割り引く、値をひく。取り去るという言い方をせずにこの動詞が選ばれてきたのは、量の減少が段階的な移動として捉えられているからでしょう。手の動作を写した字が、目に見えない数量の操作にまで届いています。身体の動きを土台に抽象的な操作を語る型そのものは珍しくありませんが、この語の場合、土台になった動作の芯がそのまま残っているのが分かりやすいところです。
書くときに効いてくるのは、この空白のほうです。この動詞を置くと、動きが連続していることは読者に伝わりますが、向きは伝わりません。向きは、直前の名詞か、あとに続く補語が引き受けています。手綱をひいた、と書けば近づき、潮がひいた、と書けば遠ざかります。芯だけを渡して残りを文脈に委ねる語は、文の中で軽く、そして正確に働きます。方向まで語彙で言い切ろうとした瞬間、たいてい文は重くなります。