対談やインタビューの記事を読んでいると、地の文に同じ姿勢が繰り返し出てきます。話題が核心に入ったところで、括弧の外に一行、その人が前へ出たことが書き添えられる。別の雑誌の、別の相手の記事でも、ほとんど同じ位置に同じ一句が置かれている。書き手どうしが示し合わせたわけではありません。関心が高まった瞬間を、日本語の文章はこの姿勢で書くことにしている。定型というのは、こういうふうに現れます——誰かが決めたのではなく、多くの書き手が独立に同じ選択をした結果として、ある並びだけが分厚くなる。だとすれば、この句が何を担っているかは、語釈よりも、その分厚さの側に書き込まれていることになります。
言語学者の J.R. ファースが残した言い方に、語はそれが連れている仲間によって知られる、というものがあります。単語の意味を定義から取り出すのではなく、その語の前後にどんな語が現れるかの分布から捉える——計量的な語彙研究は、おおむねこの発想の上に立っています。辞書が「上体を前へ出して」と説明したところで、この句が文章の中で実際に何をしている語なのかは、後ろに続く動詞を並べたときに初めて輪郭を持ちます。
経験的に言えば、後続の動詞は狭い範囲に集まります。聞く、覗き込む、尋ねる、問い返す、叫ぶ、指さす。いずれも情報を取りに行く動作か、それを声で押し出す動作です。眠る、黙る、思い出すといった内向きの動詞はほとんど続きません。前に来る語も偏っていて、思わず、ぐっと、わずかに、といった程度の副詞と、机に、カウンターに、手すりから、といった支点を示す名詞句が多くを占めます。つまりこの句は、字面としては姿勢しか表していないのに、運用の上では「相手の情報へ接近する」という機能まで背負っている。頻度の偏りが、語義の記述には書かれていない役割を示しているわけです。
連なりの固さも観察できます。「身を」と「乗り出して」の間に別の語を挟むことは、ほとんどできません。「身をゆっくり乗り出して」は言えなくはないが座りが悪く、修飾語は句の外側へ追い出される。この分離しにくさは、語の連鎖を n 語の窓で数える手法、いわゆる n-gram で扱うときに便利な性質です。二つの要素が事実上ひとつの単位として振る舞っているなら、統計上も一語として数えたほうが実態に合う。慣用句とは、計量的には「次に来る語の予測確率が異様に高い連鎖」のことだと言い換えられます。
見出しの形そのものにも、分布が現れています。この項が終止形ではなくテ形で立っているのは、辞書の都合ではありません。実際の文章の中で、この句はほとんどテ形のまま使われるからです。身を乗り出した。と言い切って文を閉じる例は、思いのほか少ない。前へ出たまま次の動詞へ渡し、その動詞のほうが文の主要な述語になります。姿勢は述べられるために書かれているのではなく、次の行為に条件を付けるために書かれている。だからこの句を文末に置くと、そこで場面が止まったように読める。止めたいときには使えますが、意図せずそうすると、次の一行が来るまで読者を待たせることになります。テ形で数えるか終止形で数えるかによって、同じ句の頻度は違う顔を見せる。
同じ複合動詞が、格の取り方によって別語のように振る舞う点も見ておきたい。この句では「身を」という対格を取りますが、「事業に乗り出す」「捜査に乗り出す」の形では対格が消えて「〜に」が立ちます。前者は上体の位置の話で、後者は着手の話です。辞書は同じ見出しの下に二つを並べますが、分布の上では共起する名詞の集合がほとんど重ならない。片方は机・カウンター・窓、もう片方は事業・捜査・開発。重ならない集合を一つの見出しにまとめると、平均された像が出てきて、どちらの用法にも当てはまらない説明ができあがります。見出しの単位で数えるか、格の型ごとに数えるかで、出てくる姿はまるで違ってきます。
実務に落とすと、方針は二つに分かれます。ひとつは、共起の強さを利用すること。予測しやすい連鎖は読者の処理負荷が低く、速く読ませたい場面や、注意を別の要素へ集めたい場面では有利に働きます。もうひとつは、共起を一箇所だけ裏切ること。前後の語は定型のまま保ち、続く動詞だけを分布の外から選ぶ。前へ出て、黙る。この一語の逸脱が効くのは、周囲が徹底して定型だからです。分布を知ることは、定型を避けるためというより、どこで一度だけ外すかを決めるために役立ちます。