「足がすくむ」とは言えるのに、「足をすくめる」はうまく言えません。一方、身のほうは両方が成立します。すくむとも言えるし、すくめるとも言える。自動詞と他動詞の対がそろっているのに、身体部位によって片方しか使えない——この非対称は、単語の意味を説明しても出てきません。構文の側の事情です。
差は「身」という語の側にありそうです。足や肩は身体の部分ですが、身は部分ではなく、身体の全体と、そこに乗っている自分自身とをまとめて指します。身を起こす、身を投げる、身を置く。動いているのはいつも人物の全体で、切り出された一部ではありません。全体は姿勢として構えられる。だから他動詞が立つ。部分のほうは、震えや強張りが勝手に起きる場所であって、構えの宛先になりにくい。足がすくむと言うときの足は、本人にも動かしようのない何かです。目的語には置けない。
意志の有無がここで効いてきます。自動詞のほうは不随意で、恐怖や驚きが身体に起きた出来事として書かれる。他動詞のほうは、少なくとも半分は本人の側の動作で、危険を避けようとする姿勢を含みます。ところが、テ形にした途端にこの差が薄れる。後続の動詞に従属して付帯状況を述べる形になると、意志の有無は前面から退き、姿勢の輪郭だけが残る。文法的には他動詞の痕跡が残っているのに、読者が受け取るのは動作ではなく形です。
この自他の対そのものにも、規則性があります。縮む・縮める、屈む・屈める、そして、すくむ・すくめる。語尾がむで終わる自動詞に対して、めるで終わる他動詞が並ぶ型で、姿勢や形状の変化を表す動詞にまとまって現れます。並べてみると、いずれも身体が小さくなる方向の動きばかりで、大きくなる側にはこの型があまり見当たらない。縮む方向に自他の対がそろい、伸びる方向にはそろわないという偏りがあることになりますが、なぜそうなのかは分かりません。ただ、恐怖や緊張を書く語彙が、この一つの型に集中しているという事実は残ります。書き手が姿勢の描写で似た響きを繰り返してしまうのは、語の選び方が悪いというより、選択肢の側がもともと偏っているからです。
似た形の「肩をすくめる」は、少し離れた位置にあります。西洋語の身振りの訳として広まった面があり、日本語の伝統的な所作とは言いにくいという指摘があります。実際、こちらは恐怖ではなく、諦めや軽い否認を表すことが多い。同じ「すくめる」でも、目的語が身か肩かで意味が分岐している。動詞の意味が目的語を選ぶのではなく、目的語が動詞の意味を決めている例です。
書く場面では、この対の使い分けが描写の主導権を決めます。恐怖そのものを書くなら不随意の自動詞、避けようとする姿勢を書くならテ形。そしてテ形を選んだときは、主節の動詞に注意が要ります。同じ姿勢でも「身をすくめて走った」と「身をすくめて待った」では、読者が想像する時間の長さが違う。前者は一瞬、後者は数分。付帯状況の節は、自分では持続時間を持たず、主節から借りてくる。姿勢を何秒間続けさせるかは、その動詞を選んだ時点で決まっています。