現実にこの動作をしている人を見た記憶を探すと、意外なほど出てきません。少なくとも、日本語で日常会話をしている場面では珍しい。ところが日本語の小説では、驚くほど頻繁に登場します。翻訳を経由して入ってきた所作が、書き言葉の側にだけ定着した——そう考えるのが順当でしょう。
まず、この所作が会話のなかで何をしているかを見ます。担っているのは、知らない、どうしようもない、自分の関知するところではない、といった内容です。注目すべきは、それを命題として口に出していない点にあります。言えば真偽を問われる。言わなければ問われない。責任の所在が宙に浮いたまま、意味だけが相手に届く。
ここで引っかかります。何も言っていないのなら、伝わっているものは何なのか。聞き手は確実に受け取っているのだから、伝達は成立している。けれども、あとから「そんなつもりはなかった」と言えてしまう。この、伝わっているのに取り消せるという性質は、言外の含みが持つ典型的な特徴です。明示された内容は取り消せませんが、含みは取り消せる。所作は、その取り消し可能性を最大限に使う道具になっている。
とはいえ、日本語には同じ機能の装置が最初からあったはずです。語尾をぼかす。言いさして黙る。「まあ、ね」で止める。どれも命題を確定させずに態度だけを渡す方法で、しかも土着です。輸入する必要はどこにもなかった。
それでも残っている理由を考えると、身体の側に答えがありました。言いさしは声を使います。声を使うということは、会話の順番を一つ消費するということです。対して、この所作は黙って行える。相手が話している最中にも、話し終わった直後の一瞬にも差し込める。書き手にとっては、台詞の応酬を止めずに人物の反応を挿入できる手段になる。地の文が一行だけ割り込む形になり、テンポが落ちない。便利だから残った、という説明で足りると思います。
もう一つ、副産物のような働きもあります。日常の所作としては珍しいものを人物にさせると、それだけで人物の位相が指定される。飄々としている、斜に構えている、あるいは外国語の会話に慣れている——読者は動作の意味と同時に、その動作を選ぶ人間の像まで受け取ってしまいます。誰にでもさせられる仕草ではない、ということです。無口な老人にこれをさせると、意味は通っても人物が別人に見える。所作は内容を運ぶだけでなく、話し手の輪郭も一緒に運びます。
ただし、便利さには代償がついています。この動作は意味の幅が広すぎる。諦め、照れ隠し、無関心、当惑、寒さ。文脈が決めてくれるはずだ、と書き手は期待しますが、読者は視点人物の内側を見られないので、しばしば別の意味に読みます。
そこで実務上の対処は、動作を単独で置かないことに尽きます。直前の発話との関係を、地の文で一語だけ確定させる。答えの代わりに、と書けば返答であることが決まる。反論しかけて、と書けば飲み込んだことが決まる。関係を示す一語があれば、動作は含みを保ったまま誤読を防げる。取り消せる返事は便利ですが、書き手の側まで取り消し可能なままにしておくと、読者の手元には何も残りません。