「彼は身を縮めて部屋に入った」という一文に否定をかけてみます。「彼は身を縮めて部屋に入らなかった」。読んでみると、何が否定されたのか決まりません。入らなかったのか、縮めずに入ったのか。前者に読もうとすると、縮めていたのに入らなかった、という妙な場面になり、後者に読もうとすると、そもそもこの語順では言いにくい。素直に言うなら「身を縮めたまま、入らなかった」か「身を縮めずに入った」に分かれる。否定を一つ足しただけで、文が二つに割れてしまう。
否定の作用する範囲は、文の中でどこまで届くかが決まっています。届く範囲に入った要素は打ち消され、外にあるものは生き残る。生き残る典型が前提と呼ばれるもので、「彼は禁煙した」を否定して「禁煙していない」にしても、以前は吸っていたという含みは消えません。付帯状況を述べるテ形の節も、これに近い振る舞いをするように見えます。主節が否定されても、姿勢の描写は打ち消されず残っているように読める。ただし、テ形が担う関係はもともと一つではありません。継起、付帯状況、原因、手段。どれに読むかは前後の動詞の組み合わせ次第で、姿勢を表す句はそのうち二つに同時に足を置いています。戸口が狭かったから縮めたのか、縮めた恰好のまま入ったのか。読みが二本あるということは、否定の届く先も二本あるということです。
ただし、ここは慎重になったほうがいい。「傘をさして出かけなかった」と言われて、傘はさしたのだと受け取る人はまずいません。この場合、テ形の部分も一緒に否定の下に入っています。前提であれば否定を越えて生き残るはずなのに、生き残らない。つまり付帯状況のテ形は、前提そのものではない。生き残るか消えるかは、動詞の組み合わせと、その姿勢が主節の動作の一部として読めるかどうかで揺れます。線引きの規則を立てようとすると、すぐに例外が出る。歩いて出かけなかった、では歩行も否定の下に入りますが、急いで出かけなかった、では急ごうとした気配だけが残ることもある。
揺れるということは、この形が独立の出来事として立つのは、主節が肯定されているときに限られる、ということでもあります。肯定の主節にぶら下がっているあいだ、姿勢は背景の描写として静かに機能する。ところが主節が否定されたり、疑問文や条件節の中に入ったりすると、姿勢は自分の足場を失い、否定の内側にいるのか外にいるのか分からないまま宙に浮く。読者はその一句をどう処理していいか決められず、結果として読み飛ばします。読み飛ばされた一句は、書かれていないのと同じです。字数だけが払われて、情報は届いていない。
姿勢を運ぶ形式は、テ形のほかにもあります。身を縮めたまま。身を縮めながら。三つは交換できそうに見えて、否定を当てるとばらばらの反応を示します。「まま」は状態が続いていることを述べる形式なので、主節が打ち消されても、状態の記述までは巻き込まれない。姿勢は否定の外側に残ります。「ながら」は二つの動作が同時に進むことを述べるので、片方が起きなければ、同時という関係そのものが崩れる。姿勢は主節と運命を共にします。テ形だけが、どちらとも決まらない中間に置かれている。三つの違いは、姿勢を出来事として立てるか、状態として据えるか、主節へ従属させるかの違いです。運ぶ内容は同じでも、否定に対する頑丈さが揃っていない。
この性質は、書くときにはそのまま設計指針になります。姿勢を背景に沈めたいなら、肯定の主節に付ける。読者は気に留めずに情景として受け取り、注意は主節の動作に向かう。逆に姿勢そのものを見せたいなら、テ形から出して独立の文にする。「彼は身を縮めた。それから戸を押した。」二文に割った時点で、姿勢は背景から出来事に昇格します。昇格した姿勢には、原因も結果も付けられる。背景に沈んだままの一句に、読者は理由を探しません。
もう一つ、反実仮想の中に置くという手があります。「あのとき身を縮めていれば、見つからなかった」。条件節の中では、姿勢は起きなかった出来事として扱われ、主節の結果を左右する原因の位置に立ちます。条件節も否定と同じく従属の環境ですが、働きは正反対です。否定は姿勢から足場を奪い、条件は姿勢に因果の役を与える。上に載る演算子が変われば、下に置かれた句の身分まで変わる。同じ句が、背景にも、出来事にも、原因にもなる。決めているのは語彙ではなく、それを何の内側に置いたかです。