「彼は目を逸らさなかった」と書けば、彼が何かを見ていたことが伝わります。逸らさなかったのだから当然です。ところが「彼は目を逸らした」と書いても、彼が見ていたことは同じように伝わる。肯定しても否定しても消えない情報がここにある。逸らすには、まず向いていなければならないからです。動作を打ち消しても、動作が前提としていた状態は残る。
論理と言語のあいだで、こうして残るものは前提と呼ばれます。前提の目印のひとつが、否定の下をくぐり抜けることです。一方、この句が帯びる後ろめたさのほうは、性質が違う。「彼は目を逸らした。西日がまぶしかったのだ」と続ければ、後ろめたさは引っ込みます。取り消せるものと、取り消せないものがある。含意は取り消せて、前提は取り消せない——この非対称は、書き手が読者に何を渡してしまったのかを見分ける道具になります。渡したつもりのないものを渡している場面は、たいてい前提の側で起きている。
ただ、この整理を人物描写にそのまま持ち込むと、すぐに粗くなる。実際の読者は、逸らした理由を一つに決めません。まぶしかったと書き添えても、まぶしさを口実にしたという読みは残ります。取り消したはずの含意が、完全には消えない。おそらく物語の読解において、取り消しは含意を削除する操作ではなく、複数の解釈のあいだの重みを付け替える操作なのでしょう。論理の道具は、境界がどこにあるかは教えてくれる。境界の向こう側の濃淡までは教えてくれない。それでも、境界が見えるだけで書き方は変わります。
目的語が抽象物に伸びたときも、この構造は保たれます。現実から目を逸らす、不都合な数字から目を逸らす。物理的な首の動きはどこにもありませんが、前提のほうは生き残る。逸らされる対象は、逸らす者にとってすでに見えていたのでなければならない。だからこの言い方は、相手の無知を責める形ではなく、知っていながら扱わなかったことを責める形になります。知らなかったと弁解しても、この句が置かれた時点で認識の存在は前提されている。責め方としてかなり強い理由は、そこにあります。
反実仮想のほうにも触れておきたい。「あのとき目を逸らさなければ」という形は、逸らしたという事実を前提に置いた上で、その否定を仮に立てる。この形が成立するには、事実の側が確定していなければなりません。だから悔いの表明であると同時に、事実の再確認になっている。人物に過去の行いを認めさせたいとき、直接告白させるより、この形のほうが速く、しかも押しつけがましくない。認めていることが、文の構造から自動的に出てくるからです。
実務としては二つ。逸らす動作を書く前に、視線が何に向いていたかを一度置いておく。前提が空のまま動作だけを書くと、読者は宙で受け取ることになります。もう一つ、理由を書き添えるかどうかは、含意を消す操作ではなく濃度を調整する操作だと考える。書かなければ濃く、書けば薄まる。しかし消えはしない。この句を選んだ時点で、逃避という読みは薄い層として必ず残ります。それを嫌うなら、逸らすのではなく、視線が別のものを見つけて移ったと書くしかない。同じ首の動きでも、書き方が変われば読者に渡るものが変わる。