山が行く手を拒む、と書いても誰も不自然に思いません。山に意志はない。それでもこの動詞は無生物を主語に取れて、意味も通ります。拒絶という心の働きを表す語が、なぜ地形にまで及ぶのか。概念メタファーの枠組みを持ち出せば、抽象的な拒絶を物理的な障壁として理解している、という説明になる。ただしこの例は向きが逆です。抽象を空間で理解しているのではなく、空間的な事実のほうを意志として読んでいる。
ということは、この動詞の芯にあるのは心の状態ではなく、通そうとするものを通さないという事態そのものかもしれません。手前で止める——近づいてくる何かに対して、面を差し出す。身体的には、手のひらを前に出す姿勢、あるいは顔を背けて向きを変える動きに対応します。どちらも接触を断つのではなく、接触の手前に隙間を保つ動作です。断ち切らず、届かせない。
比べてみると違いがはっきりします。断るという語は、切るという字を持っています。関係の線がすでに引かれていて、それを断ち切る。だから「せっかくの誘いを断る」は、誘いという線が一度届いたことを前提にしている。一方こちらは、届く前に止める。同じ場面を描いても、線を切ったのか、線が届かなかったのかで、人物の距離が変わります。誘いを拒むと書けば、その誘いはまだ相手の手の内にある。
もっとも、この整理には反例があります。「差し出された手を拒む」と言えるように、すでに届いているものにも使えてしまう。障壁のメタファーが崩れているように見える。ただし崩れているというより——境界の位置が動いている、と考えたほうが通りがよさそうです。差し出された手を拒むとき、止めているのは手ではなく、その先にある関係のほうです。境界は身体の表面ではなく、もっと内側にある。この語が使われるたびに、境界がいまどこに引かれているかが、暗黙のうちに示されている。
境界が内側にあると考えると、説明のつく用法がもう一つ出てきます。「体が拒む」という言い方です。ここでは主語が自分自身の身体で、本人の意志は別のところにある。食べようとしているのに喉が受けつけない。障壁が身体の外ではなく、身体そのものとして立ち上がっている。空間のメタファーが内側へ折り返された結果、話し手は自分の一部を他者として語ることになります。同じ人間のなかに、通そうとする側と通さない側が同時にいる。この二重性を一語で書けるのが、この動詞の妙なところです。
語源についてはいくつかの説があり、どれかに決めるだけの根拠を持ちません。ただ、実務のうえで言えることは一つあります。障壁のメタファーである以上、この語は動きを含意する。何かが近づいてきていなければ、止めるべきものがない。誰も何も差し出していない場面で人物にこれをさせると、動作だけが空回りして、拒まれた側の不在が透けてしまう。使う前には、人物の気持ちより先に、いま何がどの速度で近づいているかを確かめる必要があります。