ほめ言葉と落下の動詞が、同じ一句のなかで平気で隣り合うことがあります。華々しく散る——この並びを矛盾だと感じる読者は、まずいません。称賛の語ならどれでもこうなるわけではない。輝かしく散る、目覚ましく散ると置き替えてみると、途端に耳が引っかかります。落ちる動詞を無理なく受け止められる賛辞は、そう多くない。
理由は写像の出どころにあります。もとになっているのは花で、花は咲くと散るを一組で抱えている。日本語の花は、植物の器官である前に盛りの一点を指す語でもありました。花の盛り、今が花、言わぬが花——どれも、続かないことを織り込んだ言い方です。つまりこの形容が運んでいるのは明るさではなく、絶頂と、その短さ。二つが分けられない一個の荷物になっている。
荷物の中身は、かかる先の偏りに現れます。デビュー、勝利、戦果、活躍、そして最期。相手はほとんどが出来事で、しかも一回性の高いものに寄る。衣装や食器や部屋にかけると座りが悪くなり、そちらは同じ語根から派生した別の形が引き受けています。物には盛りの一点がないので、写像が空回りしてしまう。時間の幅を持たない対象には、咲いて散る像を載せる場所がない。
音の形も、面としての開花を写しています。はなはなしいではなく、はなばなしい。二つ目の要素が濁り、語幹が二度繰り返される。畳語をとる形容詞を並べると、白々しい、空々しい、猛々しい、生々しい、若々しい——濁るものと濁らないものが混じっていて規則は単純ではありませんが、繰り返しがその性質の全面化を示す点は共通しています。一輪ではなく、視界を埋めて咲いている像。
花の側からもう一つ持ち込まれるのは、観客です。花は見られてはじめて盛りになる。その含みが残っているせいか、この形容は自分の身の上にかけると急に落ち着きを失います。私の華々しいデビュー、と書けば、自嘲か、他人の評を引き写した引用にしか読めない。誰かの一回きりの頂点を、外から、しかも少し離れた席から見ている者の語彙なのだと考えると、共起の偏りとも辻褄が合います。作中でこの評を下せる人物は、その時点で舞台の上ではなく客席にいる。
咲くと散るが同居していることは、この語を政治的にも使いやすくしました。散華はもともと仏を供養して花を撒く儀礼を指しますが、戦時下では戦死の言い換えとして用いられます。花の比喩は、失われることをあらかじめ美しい形式の内側に畳み込むことができる。現代でも、この形容を最期にかけると、その死は不運ではなく選ばれた結末のように読めてしまう。読めてしまうこと自体を、書く側は勘定に入れる必要があります。
だから、置いた時点で物語は落下を予約したことになる。予約を回収しないなら、光だけを言う語に替えるほうが正確です。回収するなら、散る場面を先に決めてから開幕を書く。順序を逆にすると、悲劇が後付けに見えます。頂点を書いているときには、もう終わりを書いている——花から来た語を選ぶというのは、その二重帳簿を引き受けるということです。