毒々しい、痛々しい、忌々しい、騒々しい。一字を重ねて「しい」で締める形容詞の群れには、ひとつ共通点があります。どれも対象そのものの性質ではなく、それを前にした人間の受け取りを述べている。毒々しい色は化学的に有毒ではないし、痛々しい姿は本人が痛がっているとは限らない。重ねの形は、内側の事実ではなく外側からの見えを名指す形式として働いてきた。この群れに属する以上、当該の語もまた、本人の内面ではなく、その人物を見ている誰かの視線の記録です。同じ型で作られた「猛々しい」を隣に置くと、視線であることがもっと分かります。勇ましさを褒める向きにも使えるのに、盗人猛々しい、という言い回しでは厚かましさを責める側へ振れる。褒めと非難のどちらへ倒れるかが、語の中身ではなく見る側の位置で決まってしまう形式なのです。
では何が見えているのか。ここで認知言語学のいう概念メタファーが顔を出します。日本語でも他の多くの言語でも、力や優位は空間的な上方向に、弱さは下方向に写像されます。胸を張る、肩をいからせる、頭を上げる——姿勢の記述がそのまま評価になるのは、垂直方向の身体経験が抽象的な強さの理解に流用されているからだと説明されています。加えて、大きさと硬さも同じ方向に束ねられる。太い、据わる、堅い。これらは物体の物理的性質を述べる語ですが、人間に向けると別の意味に着地する。
ただ、上が良くて下が悪い、と単純に言い切ると反例が出ます。舞い上がる、浮ついている、宙に浮いた話。どれも上方向でありながら、評価は下がる。逆に、腰が据わる、地に足がつく、腹を据える。こちらは下方向で、評価は上がります。つまり垂直の軸には二つの尺度が同居していて、高さのほうは力と優位を、低さのほうは安定と信頼を担当している。同じ身体経験から、向きの異なる二本の物差しが引き出されているわけです。当該の形容詞が使っているのは前者の物差しのほうで、だからこの語で褒められた人物は、強く見えていても安定して見えているとは限らない。褒めているつもりの一語が、揺らぎやすさまで一緒に運んでくることがあるのは、写像の経路がもともと二本に分かれているからです。
「雄」という字が日本語のなかで担ってきた領域を見ると、この束ねがはっきりします。雄大、雄渾、雄弁、雄叫び。どれも規模の大きさ、あるいは音量と広がりに関わる。生物学的な性別を指すはずの字が、実際には大きさのメタファーとして流通してきたわけです。そのなかで当該の形容詞だけが、規模ではなく人の姿勢のほうへ降りてきている。景観に使われる「雄」は視野を埋める大きさを、人に使われる「雄」は身体の垂直方向を指す。写像の行き先が枝分かれしている。
対になる字を置くと、方向はさらに露骨になります。雄飛と雌伏。前者は大きく羽ばたいて出ていくこと、後者は力を蓄えて従い、時を待つことを指します。飛ぶと伏せる——二つの熟語が並んだだけで、上下の空間がそのまま性別の字に割り振られてしまう。この配分は、和語の側にも同じ形で残っています。一字を重ねて「しい」で締めるという先ほどの形式に女の字を入れた語は、姿勢ではなく態度のほうへ降り、未練や優柔さを名指す評価語として使われてきた。同じ造語の型で作られた二語が、片方は身体の垂直に、もう片方は決断の遅さに着地している。写像の行き先が対称でないことは、この二語を並べるといちばん見やすくなります。
この構造は、語の現在の使いにくさも説明します。もともと性別を指す字が大きさの比喩を経由して勇気の評価語になったのだとすれば、勇気の評価は途中で性別の含みを拾ってしまう。ある種の状況を描くとき、この語が過剰に古めかしく響いたり、逆に据わりが悪く感じられたりするのは、書き手の語感の問題というより、写像の経路にもともと含まれていた成分が現代の読者に見えやすくなったためだと考えられます。語の側は変わっていないのに、読まれ方だけが動いた。
実務に落とすなら、経路をひとつ手前で止めるという手があります。姿勢の描写は写像の入口ですから、そこを書いてしまえば、評価語を置かなくても評価は届く。声が震えたまま顎を上げた、という一行は、垂直方向の身体経験を直接渡します。逆に、姿勢を一切書かずに評価語だけを置くと、読者は語り手の判断を受け取るだけで、身体の像を持てない。大きさから姿勢へ、姿勢から評価へ——この階段のどこに立って書くかを選べるのが、比喩の経路を知っていることの利点です。