『風姿花伝』で世阿弥が言う花は、咲いていません。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず。芸の魅力を花に喩えながら、その花は隠されているあいだだけ花である、と書かれている。比喩としての花が、開花という視覚ではなく、開花の予期のほうに置かれているわけです。この使い方を先に見てしまうと、後の時代の用法がずいぶん平坦に見えてきます。
古典和歌における花は、平安以降おおむね桜を指しました。上代の用例では梅を指すことが多いと言われていますが、この移り変わりの経緯には諸説あります。確かなのは、無標の「花」が特定の一種を指す時期が長く続いたことです。種名を言わずに済むということは、読み手の側にその一種が共有されていたということでもある。比喩は、共有された像の上にしか立ちません。
近代に入ると、この共有が別の形で働き始めます。言文一致以降、人物の容姿を形容する比喩としてこの表現が大量に流通した。使われれば使われるほど、指す像は薄くなる。今この語句を目にしたとき、多くの読み手の頭に浮かぶのは特定の花ではなく、「美しいと言われている」という事実のほうです。比喩が指示を失って、評価だけを残した状態——これを摩耗と呼ぶのが妥当でしょう。
字数の制約が修辞を選ぶ、という見方もできます。十七音や三十一音の定型では、明示的な比較に割ける音数がほとんどありません。だから古典詩歌は、比較の印を立てずに二つの像を並べて置く方法を鍛えてきました。並べるだけなら助詞ひとつで済む。散文が長い直喩を抱えられるようになったのは、字数の上限が外れてからです。近代の散文にこの型が増えたのは、感受性が変わったからというより、単に置ける場所ができたからだと考えることもできる——そう見ると、摩耗の速さも腑に落ちます。安く置けるものは、早く擦り切れる。
同じ働きをする語尾を並べてみると、位相の差も見えてきます。漢語がかった言い方は硬く、古語めいた接尾辞は様式を呼び込み、いま扱っている形はもっとも中立です。中立であることは、どんな文体にも入れるということでもある。入りやすさが使用を増やし、使用が像を薄くする。摩耗しやすさはこの語句の欠陥ではなく、汎用性の代償として現れている。
回復の手立てとして最初に思いつくのは、種を特定することです。桜ではなく、萼が残る種類の花だと書く。それだけで像が戻ってくる。ただ、ここで一度立ち止まりました。特定は情報を増やしますが、比喩の焦点をずらす場合があります。種を書き込んだ瞬間、読み手はその花の知識を探しに行き、喩えられているはずの人物から目が離れる。増えた情報が、比喩の働きを邪魔することがある。
では何が残るか。試してみると、有効なのは種の特定より時間の指定でした。咲いている状態ではなく、散り際や、花が終わったあとの萼のほうを書く。摩耗したのは満開の像だけで、その前後は擦り切れていないからです。世阿弥が隠された花を花と呼んだのも、方向は違いますが同じ場所を突いている。共有されている像から少しだけ外れた時点を選ぶことが、摩耗を避ける方法のすべてなのだと思います。
被喩体の偏りも、摩耗を早めました。この形が長らく人の容姿へ向けられ続けた結果、向ける先を変えるだけで新しく見えることがあります。手つきや、書かれた文字や、間の取り方に向ければ、同じ語句が別の働きを始める。喩える側をいじるより、喩えられる側を動かすほうが効く場面は多い。
もう一つ、感覚を替える手があります。視覚以外、たとえば茎を折ったときの匂いや、水を替えないままの重さ。ただしこれは比喩というより描写に近づいていくので、比喩として立てたいなら、どこかで視覚に戻す必要がある。戻る場所が決まっていないと、文章は像を拾ったまま帰ってこられなくなります。