表記して六字、読みにすれば九拍。形態素に割ると、実質的な中身は「はかな」と「ほほえみ」の二つで、あとは様子を表す接尾辞と連体の活用です。数えるところから始めるのは、この連語が文の中でどれくらいの場所を占めるのかを、感覚ではなく分量として見たいからでした。九拍というのは、日本語の語としてはかなり長い。四拍や五拍で切れる語が並ぶ流れの中に置くと、ここだけ一息ぶんの塊になります。しかも内訳を見ると、修飾する側が五拍、される側が四拍で、ほぼ拮抗している。修飾語が名詞に従属しているという感じが薄いのは、この釣り合いのせいもありそうです。
同じ事態を指す言い方を並べて、拍を数え直してみます。え、みで二拍の「笑み」。ほ、ほ、え、みで四拍の「微笑み」。び、しょ、うで三拍の「微笑」。あ、わ、い、え、みで五拍の「淡い笑み」。か、す、か、な、え、みで六拍の「かすかな笑み」。同じ場面に置ける選択肢が、二拍から九拍まで並んでいることになります。そして九拍の連語は、その一覧の最も長い端です。名詞の側でも修飾の側でも、たまたま長いほうが選ばれたのではなく、両方の枠で長いほうが選ばれた結果として、この形が出来上がっている。書き手が一語を選んだつもりでいる場所には、実際には二つの選択が入っています。しかも二つの選択は互いを打ち消しません。長い名詞に短い修飾を付ければ塊は中くらいで収まりますが、この連語では両方の長さが素直に足し算されています。
塊になること自体は欠点ではありません。問題は、その長さに見合うだけの情報が入っているかどうかです。この連語を含む一文を内容語と機能語に分けると、意味を担う語が半分近くを占める。語彙密度としては高い部類で、読み手は短い区間で多くの判断を処理することになります。ところが処理した結果として得られるものは、笑ったという事実と、それを見た誰かがどう感じたかという評価です。動作は一つしかない。長さと情報量の釣り合いは、語を選んだ時点でおおよそ決まってしまい、あとから文を伸ばしても回復しません。
というより、中身の大半は評価の側にあります。「げ」は外から見た様子の推量を表す接尾辞で、内側から断定はしない。つまり九拍のうちかなりの部分が、観察者の解釈の表示に使われている。ここで立ち止まりたいのは、その解釈を誰が行ったのかが文面から落ちやすいことです。視点人物が固定された語りなら、推量はその人物の心の動きとして読者に届きます。ところが視点が場面ごとに揺れる書き方の中に置かれると、推量だけが担い手を失って宙に浮く。密度が高いのに引き受ける人がいない状態は、読んでいて妙に軽い——重い語ほど、支える柱を必要とします。
字面の側にも、同じ偏りが出ています。六字のうち、儚・微・笑の三字が漢字で、げ・な・みの三字が仮名です。漢字と仮名がほぼ交互に並ぶので、縦の行のなかでこの六字は等間隔の縞になり、前後がどちらかに寄った文字列であるほど目立ちます。読む速度は拍で決まりますが、視線が止まる位置は字面の黒みで決まる。拍の勘定と字面の勘定は別々に効いていて、この連語はどちらの尺度でも山を作ります。両方で同時に山を作る語は、そう多くありません。原稿を離れて組版に回したときに残るのは、拍ではなく、この縞のほうです。
試しに削ってみると、事情が見えてきます。連語を「微笑んだ」に落とし、代わりに直前へ身体の記述を一行足す。口の端だけが動いて、すぐ元の位置に戻った、という程度でいい。総字数はむしろ増えるのに、文は軽くなります。情報が動作と身体と時間に分配され、一点へ集まっていた密度のピークが崩れるからです。しかも評価は消えていない。読者は身体の記述から同じ判断を組み立てますし、自分で組み立てたぶん取り消しにくくなる。
逆に言えば、ピークを作りたい場面ではこの連語は有効に働きます。段落の中で密度の山を一つだけ立てる、という程度の見当を持っておくと、置き所は自然に決まってくる。位置の効果もあります。長い一文の末尾に置くと、直前までの情報量に埋もれて塊が塊として立たない。短い文として独立させれば、九拍がそのまま一呼吸になり、前後の空白が効いてきます。文長の分布を意識的にばらつかせている書き手は、この操作を無意識にやっている。数えたところで良い文になるわけではありませんが、なぜ重いのかは説明が付きますし、説明が付けば置き換えられます。