珍しい語は一度目に強く効いて、二度目に急激に価値を落とします。情報理論の言い方を借りれば、生起確率の低い事象ほど、受け取ったときの情報量が大きい。同じ作品の中で二度目が出てくる頃には、その語はもう珍しくなくなっているのですから、目減りは当然です。ただ、この説明では足りない気がします。目減りの速さが語によってずいぶん違うからです。ある語は三度目でも保つのに、別の語は二度目で急に安っぽくなる。
この形容詞について、直前に置ける名詞を思いつく順に並べてみると、偏りがすぐ見えてきます。眉、立ち姿、横顔、声、制服姿。身体の部位と姿勢に集中していて、そこから先へ出ていきにくい。試みに内面や抽象へ広げてみると、判断や台詞や計画にはうまく係らない。年齢や場面との結び付きも強く、装いを整えた人物、とりわけ式典や隊列といった場面へ引き寄せられる傾向があります。共起の相手が狭いというのは、辞書的な意味の狭さとは別の話で、実際に隣へ立てる語がどれだけあるかという分布の話です。
この偏りは、語が単独で背負っているものではなさそうです。同じ作りの形容詞を並べてみると、似た性質が群れで現れます。猛々しい、雄々しい、若々しい、痛々しい、毒々しい、仰々しい、白々しい。一字を踊り字で繰り返して「しい」で締める型で、どれも対象を外から眺めた評価を述べています。内側の事情を説明する語がここには一つもありません。若々しいは若さの理由に触れず、痛々しいは痛みの原因に触れない。見た者の判断だけを差し出して、対象の内部については黙っている。しかもこの型は生産性が低く、新しい語がほとんど加わりません。動詞や名詞から自由に作れる型ではないので、類の輪郭が長いあいだ動かないままです。閉じた小さな類の中に、外からの評価という機能ごと収まっていることになります。共起の狭さは、語一つの癖というより、この型が連れてくる持ち物だと考えたほうが説明が付きます。
ここで効いてくるのは、語そのものの珍しさではなく、語と名詞が作る二語の組のほうです。珍しい語であっても、その語が立てられる組が数えるほどしかなければ、二度目には同じ組が再登場する確率が高い。読者の記憶に残っているのも一語ではなく組のほうなので、二度目は語の再出ではなく、同じ二語連鎖の再出として処理されます。つまり目減りの速さを決めているのは希少さではなく、その語が動ける範囲の広さです。範囲の広い語は、ありふれていても毎回違う相手と現れるので、既出の感じが積み上がらない。狭い語は、珍しさを一度使い切ったあと、同じ組み合わせで戻ってくるほかない。
もう一段、上の層があります。共起する名詞が狭いというだけでなく、この語が呼び込む場面のほうも限られている。装いを整えて人前に立つ場面、送り出しや出立の場面、隊列や式典。長編の中でそう何度も置ける種類の場面ではありませんし、置けば置くほど物語の側の起伏が平らになります。語の側の制約と物語の側の制約が同じ向きに働くので、二度目が来るときには、名詞だけでなく前後の状況まで似てしまいます。読者が既出として処理しているのは、語でも二語の組でもなく、この一式ではないかと思えてきます。三度目でも保つ語というのは、そう考えると、同じ組を違う場面へ持ち出せる語のことになる。二度目を効かせたいなら、動かすべきなのは語の隣ではなく、一式のどこかだという見当が立ちます。
ここで一度立ち止まると、共起の偏りは単なる慣習ではなさそうにも見えます。声にも係るのだとすれば、視覚に限った語ではない。眉、姿勢、抜き身の刃、まっすぐな声——並べてみると、共通しているのは輪郭のはっきりした垂直性のようなものです。感覚の種類ではなく、そこに立ち上がる図形のほうが揃っている。とすれば、隣接語を選んでいるのは品詞でも意味分野でもなく、語が抱えているイメージの骨格ということになります。
だとすれば手はあります。二度目を書くときに外すべきは名詞の型のほうで、骨格は保っておく。眉を書かずに、その人物が背を伸ばして立ち直る一動作だけを書く。図形が同じなら、語を出さなくても読者の側に同じ像が立ちます。逆に、骨格まで外して珍しい組み合わせを狙うと、多くの場合ただ壊れる。動ける範囲の狭い語は自由度が低いかわりに輪郭が強い、という取引の上に成り立っていて——その取引を無視した使い方だけが、本当に陳腐化を早めます。