平安期の用例を順に眺めていくと、現代の語感では受け止めきれない例が続きます。若い男の立ち居振る舞いに使われ、庭の草木に使われ、調度の設えにも使われている。中古の「なまめかし」は、若々しく瑞々しいこと、そこから転じて上品で優美であることを広く指した語で、必ずしも異性を惹きつける気配を伴っていませんでした。今この語を人に向けて使えば、ほぼ一つの方向にしか読まれません。千年のあいだに、意味の適用範囲が狭まっている。
語構成に戻ると、出発点がはっきりします。「なま」は生。煮えていない、熟していない、仕上がっていない状態です。生煮え、生半可、生木の「なま」と同じ。そこに様子を表す接尾が付いて、「未熟に見える」が原義に近い形になる。若さを未完成として捉え、その未完成さを美として評価する感覚が、この語の土台にあった。だから対象が人でも植物でも道具でも構わなかったわけです。語構成のどこを探しても、色情の成分は出てこない。
その後の道筋は、意味の特殊化として説明できます。優美一般を指していた語が、優美のうち特定の種類——異性に対して働く優美——へ絞りこまれていった。似た経路をたどった語はほかにもあります。表記に「艶」の字が当てられたことが、この絞りこみを加速した面もあるかもしれません。ただしこれは順序が逆かもしれず、意味が先に動いたから字が当たったとも読める。どちらが先かを決める材料を私は持っていないので、ここは保留にしておきます。
同じ経路をたどった語を思い出しておくと、この動きが例外でないことは分かります。「かわいい」はもともと痛ましい、気の毒だという意味を持っていて、そこから愛らしいへ移った。「やさしい」は身が細るような思い、恥じ入るさまを指す語だったと説明されます。いずれも、感情を表す語が評価の語へ移り、移った先で用法を狭めている。感情語は具体的な身体感覚から出発し、抽象的な評価へ吸いあげられ、最後に特定の対象へ張りつく——この三段のうち、どこで止まったかで現代語の使い勝手が決まります。
保留のまま先へ進むと、もう一つ引っかかることがあります。現代語でも、この語は「色っぽい」と完全には交換できない。若い恋人同士の軽いやりとりに「色っぽい」は置けても、この語を置くと文の温度が急に下がって、語り手が一歩退いた位置から観察しているように読めてしまう。会話文にはほとんど乗らず、地の文でしか働かない。口語の層に降りてこないまま、書き言葉の層に留まっている語なのだと思います。
そう考えると、意味が狭まったという整理だけでは足りません。狭まると同時に、この語は使用域のほうも狭めた。中古で庭にも道具にも使えたのは、それが日常の評価語だったからで、今そうでないのは特殊化の結果というより、書記語として保存されたことの結果でしょう。実務上の帰結は分かりやすい。この語を選ぶと、視点が自動的に語り手の側へ寄り、対象は観察される位置に置かれます。視点を人物の内側に置いたまま使うと、語彙だけが外へ抜けて、文の座りが悪くなる。使うなら、誰が見ているのかを先に決めておくこと。古い層を残した語は、書き手に位置取りを要求します。