この修飾句を声にかぶせて一行書いたとき、読者の目にそれはどう映るのか。おそらく、ほとんど映りません。視線は表面を滑って次の行へ移り、あとには何か良いことが書いてあったという曖昧な印象だけが残る。書き手の側には確かに像があったはずなのに、それが渡っていない。渡らなかったものが何なのかを考えると、この句の内側で起きている摩耗の形が見えてきます。
伝わっているのは、おそらく評価だけです。心地よい、深く届く、といった粗い一点。そこから先の情報がない。もともとこの言い方が持っていたのは、液体が乾いた多孔質の内部へ入っていく像でした。水が乾いた土に落ちて、表面で弾かれずに消えていく。その像には条件がいくつも付随しています。受け手が乾いていること、浸透に時間がかかること、方向が外から内への一方向であること。ところが句として固定して使われるうちに、これらの条件が剥がれ落ちて、評価の符号だけが手元に残った。手垢というのは、意味が汚れることではなく、意味の付帯条件が抜け落ちて空洞になることを指すのだと思います。
だとすれば、直し方は言い換えではありません。剥がれた条件のほうを、句の外側に置き直せばいい。この句が主張しているのは、実は受け手の状態についての事柄です。潤っている人間には染みない。乾いている人間にだけ染みる。そう捉えると、この修飾句を置く前の数百字で何をすべきかが決まってきます。渇き、疲労、長く続いた沈黙、言葉をかけられなかった時間、断られ続けた記憶——受け手を乾かす作業を先に済ませておけば、句そのものは使い古されたままでも働きます。
この句が何にかかるかを並べてみると、偏りもはっきりします。声、言葉、優しさ、旋律、静けさ。どれも輪郭を持たず、空間に広がって受け手を包むものばかりで、輪郭のはっきりした物体はまず来ません。液体の像を保っているからです。同じ水の系列にある近い言い方と比べても、性格が違う。にじむは境界がぼやける話で、浸みわたるは行き渡る範囲の話、しみるは痛みを伴う瞬間の話です。この句だけが、内部への到達と、そこに要する時間を担当している。並べて初めて、自分がどの機能を必要としているのかが選べるようになります。
ここで自分に異議を出しておきます。陳腐だから使うな、という結論は短絡です。読者の処理負荷という観点では、手垢のついた句は速い。読み慣れた形なので、立ち止まらずに通過できる。緊張の高い描写が続いたあとには、通過できる一行が休符として要ります。すべての句が新奇であれば読者は疲れ切ってしまう。問題は、この句を使うかどうかではなく、どの位置に置くかです。休符として置くなら陳腐なままでよく、その場面の山として置くなら下準備が要る。
準備を済ませたうえで、もうひとつ選択肢が開きます。乾かした人物に、あえて染みなかったと書く手です。声は届いたのに、内側まで入らずに表面を流れて落ちた。浸透の像を丁寧に立ち上げておけば、その否定形は単なる拒絶よりずっと具体的な失敗として読めます。使い古された句の価値は、読者が像を共有していることにあります。共有されている像は、肯定するためだけでなく、裏返すためにも使える。