位相空間で境界を定義するとき、それは閉包から内部を引いた差集合として与えられます。円板の境界は円周で、円周には面積がない。定義を追っている限り、境界とは幅を持たない縁です。厚みのある境界というものは、この枠組みの中には存在しない。学び始めた頃、この定義はやけに清潔だと感じた記憶があります。世界の縁は、どこもこんなに鋭くないのに。
紙にインクを落とせば、縁は幅を持ちます。ここで「滲むような」という言い方が、数学の縁と正面から衝突する。ただし衝突の中身を取り違えないほうがいい。この言い方が指しているのは、縁が消えることではありません。消えるなら「輪郭がない」と言えば済む。にもかかわらず縁という感覚は残っていて、しかし幅を持っている。幅を持ったまま、なお縁であり続けている状態を名指す語彙が要る、という事情がこの表現を成立させています。
そこで畳み込みという操作が思い浮かびます。鋭い段差を持つ関数に、幅のある核を畳み込むと、段差はなだらかな傾斜に変わる。画像処理でぼかしと呼ばれる操作がこれにあたります。重要なのは、畳み込みが中心を消さないこと。対称な核であれば分布の重心は動かない。つまり滲んだ像からでも、元がどこにあったかは読み取れます。「滲むような笑み」と書いたとき、笑みそのものが判別不能になるわけではない。判別できるが、どこまでが笑みでどこからが違うのかが決められない——この状態を、畳み込みは正確に模しています。
測度の言葉を借りると、違いはもう少し鋭く出ます。円板の境界である円周は、面積がゼロです。線として存在してはいるのに、面積を測る物差しでは検出されない。ところが紙の上の滲んだ帯には、正の面積がある。どこからどこまでかは決められないのに、その帯は確かに場所を占めている。境界が測度ゼロの集合から正の測度を持つ領域へ変わる、というのが、この語がやっていることの数学寄りの記述になります。定義できないのに存在する、のではなく、面積は測れるのに端点が決まらない。二つは別のことです。
もう一つ、帰属の度合いという見方もできます。ある点が図形の内側かどうかを、属するなら一、属さないなら零で答える関数を考える。この関数は境界で跳びます。跳びを均して、零から一へなだらかに変わる関数に置き換えると、どの点も「どのくらい内側か」という値を持つようになる。滲んだ縁を歩いていくときに起きているのは、この置き換えです。所属が失われるのではなく、所属が段階を持つ。
自分でこの比喩に異議を唱えておきます。等方的な核による拡散は、実物の滲みとは合いません。紙には繊維の方向があり、毛管現象は不均一に走る。落ちたインクは円に広がらず、どこか一方向に舌を伸ばす。だから「滲む」の実感には、なだらかさだけでなく不規則さも含まれている。この不規則さを落とすと、比喩は単なるぼやけと同義になってしまう。ぼやけは一様で、滲みは偏る。両者を同じ棚に置くのは雑です。
実務に降ろすなら、核を先に決めるという話になります。畳み込みには核が要る。何が、どの方向に、どれだけ広がっているのかが決まらないと、この操作は定義できません。「滲むような不安」と書く前に、その不安が時間方向に広がっているのか、対象方向に広がっているのかを決めておく。前者なら、いつ始まったか分からないという書き方になり、後者なら、何に対する不安か特定できないという書き方になる。同じ語で、まるで違う場面が書けます。核を決めずに輪郭だけ緩めた文は、読者の側でも何も広がらない。中心が残っているからこそ、周りが滲んでいると分かるのです。