実際に砂を噛んだことのある人は、どのくらいいるのでしょうか。海辺で焼いた貝に混じっていた一粒、砂場で転んだ子どもの頃、風の強い日の駅前で口の中がざらついたこと。思い当たる人はいても、繰り返し味わうような経験ではないはずです。それでもこの比喩は初見で通じ、しかも意味を取り違える読者がほとんどいない。通じる理由が経験の共有にないとすると、では何がこれを支えているのか。手垢の落とし方を考える前に、まずそこから始めることにしました。
支えを探すために、この比喩が運んでいる成分を分けてみます。味がしないこと。噛んでも量が減らず、いつまでも口の中に残ること。異物であるのに、小さすぎて吐き出しきれないこと。ざらつきが歯に直接触れる不快。四つは互いに別の感覚で、それぞれ別の状況に対応します。ところが実際の用例を追っていくと、使われているのはほとんど一つ目だけです。味気ない日々、砂を噛むような勝利、砂を噛む思い。残りは語の中で眠ったまま、一度も呼び出されていない。
慣用句が古びる過程は、この眠りの進行として説明できそうです。使われるうちに意味の束から一本だけが太くなり、他が細って落ちる。落ちた成分は消滅したのではなく、参照されなくなっただけで語の中には残っている。だとすれば手垢を落とす方法のひとつは、落ちた側を主役に戻すことになります。噛んでも減らないという性質を前に出せば、これは敗北の描写ではなく徒労の描写に変わる。何度やっても口の中の量が変わらない作業。長く続く仕事や、成果の見えない介護や訓練の描写には、明らかにこちらの成分の方が合っています。
ただし、同じ手術がどの慣用句にも効くわけではありません。分解して組み直せるのは、もとに身体の経験が据わっている比喩だけです。歯が浮く、胸を打つ、腑に落ちる。どれも実際に起きる感覚を成分へ割ることができ、割った先にまだ書く材料が残っています。ところが目から鱗が落ちるのように、聖書の一場面に由来するとされる句には、割るべき成分がありません。落ちた鱗の質感をどれだけ丁寧に書いたところで、読者の身体には照合先がなく、注釈を読まされている感触だけが残る。見分け方は簡単で、その句の中身を自分の身体で一度たどれるかどうかを試せばよい。歯が浮く感じは思い出せますが、鱗が目から落ちる感じは誰にも思い出せません。手垢を落とす作業に見込みがあるかどうかは、その句が身体から出たか物語から出たかで、着手する前にほぼ決まっています。
とはいえ、分解すれば必ず新鮮になるという話でもありません。読者は慣用句を一つの塊として読んでいて、塊のままなら視線が止まらない。分解して書き直した比喩は、意味が濃くなるかわりに読解の速度を確実に落とします。落として構わない場所と、落としてはいけない場所がある。連載の第一話で速度を落とすのは危険ですし、場面転換の直後に凝った比喩を置くと、転換そのものが読み飛ばされる。会話の応酬の途中に挟めば、テンポが崩れて誰の台詞か分からなくなることさえある。ここは自分の観察に自分でブレーキをかけるところです。
分解は全か無かではない、という逃げ道も用意されています。句をそのまま残したまま、眠っている成分を一語だけ起こす手つきです。砂を噛むような、いくら噛んでも量の減らない三年だった——句形は保たれているので読者は塊のまま通過でき、それでいて受け取る成分のほうは入れ替わっている。連体修飾をひとつ足すか、後続の文に同じ性質の名詞を置くか、やり方はいくつかありますが、狙いは共通しています。読み直しを要求せずに、参照先だけをずらす。全面的に書き換えた比喩が高くつくのは、意味が濃いからではなく、読者に一度立ち止まって組み立て直す労働を求めるからです。求めずに済む場面なら、求めないほうがいい。一語で足りるところに三行を使うと、比喩が場面より大きくなります。
そこで判断の基準を一つに絞ると、その一文が場面の要かどうかに帰着します。要であれば分解して書く価値がある。読者の視線を止めたい場所なのだから、速度が落ちることは損失ではなく目的です。通過点であれば塊のまま置く。使い古された形のまま置くのは怠慢ではなく、そこで読者を止めないという設計判断になります。同じ比喩を、あるときは分解し、あるときは丸ごと使う。使い分けの根拠を語の側ではなく場面の側に置いてしまえば、陳腐化はかなりの部分まで管理できます。