スキーの講習で最初に習うのは、進み方ではなく止まり方です。板を履いて斜面に立てば、前へ動くことは放っておいても起きます。習得すべきは制御のほうであって、動作そのものではありません——動くことは初期状態で、止まることが技術なのです。この順序が、そのまま語の意味の広がりにも効いているように見えます。制御が外れた状態を先に名づけ、あとから制御された状態を特別扱いします。ふつうは逆のはずなのに、この動詞では最初から失敗の側に足場がある。
物理的な滑走から、意図しない動作へと広がります。「手が滑る」「口が滑る」がその例です。どちらも本人の身体で起きているのに、責任の輪郭がぼやけます。自動詞であることが効いています。「落とす」なら他動詞で行為者が立ちますが、こちらは出来事として提示され、誰が悪いのかを言わずに済みます。言い訳に使いやすい語形をしている、と言ってもいいでしょう。制御が外れたという記述は、制御しようとしていたことを暗に含むので、弁明としても都合がよくできています。しかも身体部位を主語に立てられる点が独特で、手や口といった部分が勝手に動いたことにできます。持ち主である当人は、その隣で観察していただけの位置に退きます。日本語には同じ型の言い方が他にもありますが、これほど広く使われるものは限られます。
そこから先の広がりは急です。「試験に滑る」は不合格の意で、受験の場では忌み言葉として避けられ、滑り止めという語まで定着しました。さらに近年は、冗談が場に受けないことをこの語で言う用法が広く使われるようになり、芸能の業界語から一般語へ移ったとされます。語の意味が悪いほうへ傾いていく過程を、進行中の実例として観察できる語は、それほど多くありません。しかもこの広がり方には順序があります。物理の滑走がまずあり、そこから制御の喪失が分かれ、さらに評価の失敗へ届きます。途中の段階を飛ばしていません。滑る、手が滑る、試験に滑る、話が滑る——並べてみると、身体の外側で起きていた出来事が、少しずつ社会的な評価の側へ移っていく足跡がそのまま残っています。
ただ、悪化と言い切ってしまうと雑になります。「滑らかに滑る」も「氷を滑るような」も肯定的で、否定の色はどこにもありません。悪い意味が付いたのは語全体ではなく、特定の型のほうです。目標を助詞で受ける用法と、主語だけを伴って単独で立つ用法がそれにあたります。動詞が丸ごと悪くなるのではなく、構文が先に色づき、その構文の記憶が語のほうに残っていく——意味の悪化はおそらく、語彙の現象であると同時に構文の現象です。そう考えると、辞書の語義欄が並べる番号のどこに「失敗」を置くかは、実はかなり難しい判断になります。
実務上の帰結は、時代設定に敏感な語になっている、という一点に尽きます。時代物の地の文で失敗の意味に使えば浮くし、現代物であっても、使う人物の年齢や職業を漏らします。意味変化の途中にある語は、書き手が意識していなくても話者の位置を表示してしまいます。もっとも、それは弱点とばかりは言えません。二人の登場人物に同じ一語を違う意味で受け取らせれば、それだけで世代差の場面が一つ書けます。ずれている最中の語は、ずれを描くための道具でもある。片方は板の下の氷を思い浮かべ、もう片方は静まり返った客席を思い浮かべます。同じ音を聞いて別の絵を見ている二人を書くのに、説明はほとんど要りません。