ドイツ語に prägnant という形容詞があります。短いのに中身が詰まっている、という状態を褒める語で、語源はラテン語の praegnans——はらんでいる、身ごもっている——に遡るとされます。英語の pregnant にも、pregnant pause のように「含みのある」という語義が残っている。短さを、この系統の語は充満の比喩で呼んでいることになります。中に何かがいるから、外側が小さくても足りている。
英語がこの状態に当てる語は、別の方向を向いています。concise はラテン語で切り刻むことを意味する動詞に由来し、削り落とした結果として短い。succinct は、下から帯を締める、という語形成で、束ねて縛った短さ。terse はもともと磨かれた・拭われたという意味だったものが、そっけないという含みへ移ったとされます。laconic に至っては地名由来で、ラコニア地方、すなわちスパルタの人々の寡黙さを指す語でした。切る、締める、磨く、地域の気質。ひとつの状態に、これだけ違う入口が用意されている。
日本語の二字を分解すると、また別の入口が現れます。「簡」は竹簡の簡で、そこから手続きを省く意味が出た。「潔」は水で洗って清める、いさぎよい、の系統です。つまりこの語は、短さを清潔さの側から呼んでいる。削るのでも締めるのでもなく、汚れを落として澄ませる。倫理的な色を持つ字が、二つのうち片方を占めているわけです。
字の意味が今も生きているかどうかは、試せます。簡潔だが冷たい、簡潔すぎて不親切だ、という言い方は成立します。ところが、簡潔だが汚い、はうまく立たない。もし「潔」の含みが完全に摩耗して、単に短いという意味だけが残っているなら、汚さとの両立は妨げられないはずです。妨げられるということは、字が運んでいる清潔さが評価の条件として働き続けている。冷たさとは両立し、汚さとは両立しない。この非対称が、字義の生存を示す証拠になります。
倫理の色が乗っている副作用として、自己評価に使いにくいという性質もあります。私の説明は簡潔です、と書けば、内容の報告ではなく自賛に読まれる。短さだけを言うのなら自己申告できるはずですが、清潔さの含みがあるために、褒める行為になってしまう。だからこの語は、他人の文章か、書き終えた過去の自分の文章にしか向けられない。目標として掲げる語ではなく、事後に与えられる語です。
適用範囲にも制約があります。英語の brief は時間や分量の短さを指し、会議にも滞在にも使える。この二字は、時間には掛かりません。簡潔な会議、とは言いにくく、短い会議、と言うほかない。掛かる先は、言語で作られたものにほぼ限られます。文章、説明、報告、返答。言葉の形をしていないものを、この語で褒めることはできない。訳語として選ぶとき、最初に確認すべきはここです。
翻訳の現場では、こうした差が指示の内容まで変えます。英語で concise にせよと言われた書き手は、余分を切り落とす作業を思い浮かべる。切った断面が粗いままでも、短くなっていれば要求は満たされている。日本語で言われれば、削るだけでは終わらず、跡を整える工程が付いてくる。terse な文体——削り跡をあえて残し、素っ気なさそのものを効果にする書き方——は、英語では褒め言葉になり得ますが、この二字では褒められません。同じ短さを目指しているのに、到達点の手触りが違う。訳語選びでは、意味の広さ以上に、こうした価値の向きが厄介です。