交易の「易」と、平易の「易」は同じ字です。取り替えることと、たやすいこと。字書はこの二つを別の音(エキとイ)で読み分けますが、形は一つしかない。字源については諸説があり、蜥蜴の象形とみる説、日と月を組み合わせたものとする説などが並んでいて、決着はしていないようです。ただ、字源が定まらなくても、意味の側の二つがどう連絡しているのかは考えられます。そしてそこを追いかけていくと、この漢語の冷たさの出どころに行き当たりました。
取り替えのきくものは、軽いものです。重い石は動かせず、大きな建物は差し替えられない。交換可能性と労力の少なさは、経験の上では確かに近い場所にある。ただしこの筋道はもっともらしいだけで、証明されたものではありません。意味の変化を後から説明する話は、たいてい後知恵で作れてしまう。ここは断定を避けておきます。確かなのは、現代の日本語がこの字の二つの顔を別々の語彙群に分けて使っているという事実のほうです。交易・貿易には難易の含みがなく、平易・安易には交換の含みがない。一つの字が、二つの語彙圏に分かれて住んでいる。
上の字も見ておきます。「容」は屋根を表す部分と谷とから成り、中に入れる、いれものといった意味を持ちます。容量、収容、許容。ゆとりがある、受け入れる余地がある、という方向です。二字を並べると、抵抗のなさが二重に述べられていることになる。受け入れる側に余地があり、動かす側にも重さがない。障害が両側から取り除かれている構図です。
和語と比べると、この構図の性格がはっきりします。「たやすい」の「やすい」は、安らかの安と同じ系統の語だと言われます。心の側の語です。骨が折れない、手を焼かない、といった言い方も同様で、身体の疲れや手間から発想されている。つまり和語のほうは、作業する人間の内側に基準がある。漢語のほうは、物と物のあいだの抵抗という外側の記述になっている。同じ「難しくない」を言っていても、視点の置き場所が違う——だから「容易ではない」は突き放して聞こえ、「たやすくはない」には話し手の実感が残ります。
同じ字を含む「安易」を並べると、事態はもう少し込み入ってきます。こちらは労力の少なさを述べるだけでは終わらず、話し手の否定的な評価を必ず伴う。安易な解決、安易な妥協。難しくないという事実の記述が、いつのまにか「難しくすべきところを難しくしなかった」という非難に変わっています。上に置かれた字が違うだけで、評価の符号が反転してしまう。抵抗のなさは、それ自体では良くも悪くもない——どちらに転ぶかは、その抵抗が本来あるべきものだったかどうかで決まります。字義から評価が導けない例として、これは分かりやすい。
地の文でこの差が効くのは、判断を下している主体が誰なのかを示すときです。報告書や供述、外側から事態を見ている語り手の目線では、漢語のほうが収まる。人物の内側に寄って、その手の疲れごと書きたい場面では和語が要る。同じ内容を二通りに書けるという事実は、どちらでもいいという意味ではなく、選ばなければ視点が定まらないという意味でした。