「朝六時に起こる」とは言えません。「事故が起こる」なら何の抵抗もなく通ります。常用漢字表は「起」の訓として、お-きる・お-こる・お-こす の三つを掲げています。上一段活用の自動詞、五段活用の自動詞、そして両者に対応する他動詞。自動詞が二つに対して他動詞は一つで、数が釣り合っていません。辞書を見れば「起きる」の項に起床と生起の二義が並んでいますが、同居の理由は項目の内側を眺めても出てきません。すぐ隣にもう一つ自動詞が立っている、という配置まで含めて初めて、二義が二義である事情に説明がつきます。
覆う範囲を比べると、包含は一方通行です。五段の側が受け持つのは事象の発生だけで、寝床から身を離す動作には及びません。上一段の側は発生も起床も両方こなす。片方の範囲がもう片方を丸ごと含み、その逆は成り立たない。テイル形にすると差はもっと露骨になります。「まだ起きている」は覚醒の持続とも、事象が発生してなお続いている状態とも読めて、前後がなければ決まらない。ところが「まだ起こっている」に覚醒の読みは出ません。曖昧さは上一段の側にだけ発生していて、しかもそれは一語の内部で意味が枝分かれしたからではなく、隣の領分に踏み込んだ結果として理解できます。境界がどちら向きに動いたのかを断定する材料は手元にありませんが、包含の向きだけは今の日本語で確かめられます。
派生語の分布が、この見立てを補強します。早起き、寝起き、起き抜け——連用形から作られた名詞はどれも起床の側にしかありません。地震や事故について「起き」を含む複合名詞が作られることはない。一方で「事の起こり」「病の起こり」という言い方は残っていて、こちらは五段の自動詞に由来します。名詞化の分布は、二つの語義ではなく二つの動詞に沿って割れている。語彙の表面で境界が動いても、複合語や名詞化の層は古い区分をしばらく抱え込む——「起」の三訓は、その時間差を化石のように残しています。
他動詞の側に、この分業はありません。子供を起こす、事故を起こす、倒れた自転車を起こす、火を起こす、訴訟を起こす。身体も事象も物体も、一つの語形がまとめて引き受けます。複合動詞まで見ると幅はさらに広がって、掘り起こすは土に、呼び起こすは記憶に、揺り起こすは眠る人に向かう。原因を与える構文では区別が要らなかった、と考えると収まりがいい。自動詞が二つに割れていた理由は、主語の位置に身体が立てるかどうかという一点だったはずで、行為者が別に立つ文では、その一点は問題になりようがない。三訓のうち意味の幅が最も広いのは他動詞、最も狭いのが五段の自動詞で、上一段の自動詞は中間にいて、いまも位置を変えつつあります。
書き手の判断は、だいたい二段階で来ます。第一に、二つの自動詞のどちらを選ぶか。「事件が起こった」と「事件が起きた」の差は意味ではなく文章の硬さで、前者は記録の語調へ寄り、後者は会話の側へ寄ります。第二に、そもそも自動詞を選ぶかどうか。「事故が起きた」と「事故を起こした」のあいだにあるのは視点の違いではなく、行為者を文の中に残すか消すかという選択で、自動詞を置いた時点で書き手は原因を風景の側へ引き渡しています。伏せたい場面では有効な道具ですが、伏せたことを忘れたまま章が進むと、読者は誰の失敗を読まされているのか分からなくなります。三つの訓は、責任の配り方の三段階にそのまま対応しています。