新聞や役所の文書では、この時刻を表す語がしばしば仮名で組まれています。理由は単純で、二字めが常用漢字表に含まれていないからです。表に載らない字を使わないという運用があると、熟語の片側だけが漏れる。漏れた側に引きずられて、語全体が仮名になる。表記の選択が語の意味とも歴史とも関係のない、事務的な事情だけで決まっている場面で、こういうものを見ると少し立ち止まります。片方だけを仮名にする書き方が採られないのは、この語の読みが字ごとに割り振れないからです。
読みの割り振りができない、という点はもう少し見ておく価値があります。前の字が「た」で後ろの字が「そがれ」なのではなく、二字まとめてはじめて読みが成立する、いわゆる熟字訓です。表記と音の対応が切れている、と言ってもいい。だから漢字で書かれたとき、この二文字は読み方の指示ではなく、意味の絵として働いています。読者は絵を見て意味を取り、そのあとで別系統に記憶している読みを呼び出す。組版でルビを振るときも、字ごとに分けて添えることができず、熟語全体にまとめてかける形になる。ルビの付け方が語の性質を露出させている珍しい例で、割れないという一点だけで熟字訓かどうかが見分けられます。仮名書きに直せば、絵が消えて音だけが残る。
ここで疑ってみます。表記の違いなど些末で、読者は結局同じ意味を受け取るのではないか。実際、意味は変わりません。変わるのは速度と重さのほうです。漢字二字は画数が多く、行の中で黒く沈む。目は一度そこで止まります。対して仮名の五文字は横に伸び、音の長さがそのまま字面の長さになる。同じ時刻を指していても、前者は名詞として据わり、後者は流れていく。一行の中でどちらを選ぶかは、その文で時刻に立ち止まってほしいかどうかの判断になります。判断の材料が意味の側になく、活字の黒さの側にある——このねじれは、表記を選ぶ作業のほとんどに共通しています。
動詞化するとさらに込み入ります。送り仮名が加わるからです。表外の字に送りがつく形は、活字でも手書きでも安定せず、全部を仮名で書く形と揺れる。しかも現代語では、この動詞は本来の時刻の意味を離れて、物思いに沈んでいる様子や、盛りを過ぎた状態を指すことがあります。意味が二通り、表記が二通りで、組み合わせは四つ。読者はそのつど当たりをつけて読むことになり、当たりが外れれば一拍遅れる。時刻の意味で使いたいときほど漢字で組んだほうが誤解が少ない、という経験則はここから出てきます。名詞の側は絵として据わっているのに、動詞にした途端に足元が崩れます。語形の変化が表記の安定を奪う例として、これはかなり分かりやすい部類でしょう。
実作の判断としては、一つの作品の中で表記を揺らさないのが基本です。ただし、揺らすことが機能する場面もあります。地の文は漢字で組み、会話文だけ仮名にする。語り手は時刻を名指しているが、話者は口に出しているだけだ、という差が、読む負荷そのものとして紙面に出る。表記は意味を運ばない、とよく言われます。運ばないぶん、読む速さを直接いじれる。字を選ぶ作業が、実は文の時間を選ぶ作業だったと捉え直せば、常用漢字表から一字漏れているという行政上の事実も、そのまま使える材料に変わります。