「彼は音楽に目覚めた」と書くとき、眠っていた期間を認定しているのは誰なのでしょう。本人でしょうか。それとも、あとから経緯を眺めている語り手でしょうか。この問いに答えを出さないまま、少し周りを歩いてみます。答えが書かれていないのに、読んだ人はまず立ち止まりません。彼が長いあいだ音楽から遠かったという設定を、誰の証言もないまま受け取ってしまう。一語の動詞が、証言なしで通る情報をひとつ運び込んでいることになります。
「〜に目覚める」という形は、それ以前がそうでなかったことを前もって置きます。しかもこれは、文の内容として主張されているのではなく、主張の土台として据えられている。見分け方は簡単で、否定してみればわかります。「彼は音楽に目覚めなかった」と言っても、それ以前に音楽と縁がなかったという設定は残ります。否定は主張の部分だけを裏返し、土台のほうは裏返さない。土台に置かれた情報は、反論しにくいという性質を持ちます——反論するには、文の内容ではなく、文そのものを拒まなければならない。眠っていた、という評価が、こうして議論の外に置かれる。
後ろに来る対象にも、はっきりした偏りがあります。音楽、芸術、信仰、政治、あるいは自分自身の資質。並べてみると、どれも当人の生き方を組み替える規模のものばかりです。「彼は簿記に目覚めた」と書けば、読者はまず冗談として受け取る。簿記が値打ちの低い技術だからではなく、この動詞が要求しているのが技能の習得ではなく、世界の見え方の反転だからです。逆に言えば、小さな対象を後ろに置いたときの落差は、そのまま効果として使えます。悪徳や暴力を対象にした用例が文学のなかで生きるのも、規模の条件だけは満たされているからでしょう。何を後ろに置くかという選択は、書き手がその人物の変化をどの大きさで見積もっているかを、こっそり公表してしまいます。
朝の場面に戻すと、別の非対称が見えます。「起きた?」と「目は覚めた?」は、答えられる範囲が違います。前者は身体が床を離れたかを問い、後者は意識だけを問う。だから「目は覚めたけど起きられない」が言えて、逆は言いにくい。この二段構えは日常の言葉として便利ですが、書き手にとっては視点の分岐点でもあります。意識だけが戻っている数十秒を書くのか、身体が動き出すところから書くのか。人物の一日をどこから始めるかが、この選択で決まってしまう。
さらに妙なのは、一人称現在との相性です。「私は今、目覚めています」という文は、意味は取れるのに座りが悪い。自分の覚醒は、自分にとって語りの対象ではなく、語ることの前提だからでしょう。目覚めていなければ報告はできない。だからこの動詞は、過去形か、他者について使うか、あるいは比喩へ回るかのいずれかに追い込まれます——一人称の現在という位置に、居場所がない。実況のように「今まさに目覚めつつある」と書けるのは、意識の戻り方を外側から眺められる立場だけです。一人称で書かれた小説がこの動詞を使うとき、語っている「私」は、たいてい体験している時点よりずっとあとに立っています。時制の選択に見えるものが、語り手をどこに置くかの選択になっている。
その追い込まれた先に、命令形があります。「目覚めよ」。宗教的な呼びかけや、政治的な檄として現れる形です。覚醒は意志で起こせない状態変化ですから、字義どおりには命令できません。命令できないものに命令形を使うと、聞き手はそれを字義どおりには取らず、別の読みを探します。結果として、この形は必ず比喩として着地する。眠っている者は反論できず、目覚めよと呼びかける側が覚醒の基準を握る。土台に情報を置く仕組みが、ここで一番強く働いています。連用形から作られた名詞のほうも、同じ事情を裏側から照らしています。目覚まし時計とは、自分では起こせない状態変化を機械に外注するための道具です。命令できないものを他者や装置に引き起こさせる仕組みが、語彙の側にきちんと用意されている。
最初の問いには、結局答えが出ませんでした。ただ、答えが出ないこと自体が使えます。人物が自分で「あのとき目覚めた」と語る場面と、語り手が「彼はこのとき目覚めた」と書く場面では、眠っていた期間を誰が決めたかが変わる。前者は自己解釈で、あとから作られた物語かもしれない。後者は認定で、語り手の権限が一段強く出ます。同じ出来事を書きながら、どちらの権限で書くかを選ばずに済ませることはできない。