「眠りを誘うような講演でした」と感想を述べられた講演者は、まず褒められたとは受け取らないでしょう。ところが「眠りを誘うような雨音」となれば、ほぼ確実に肯定の側です。連体修飾の形は一字も変わっていないのに、かかる先が人の営みか自然の音かで、値が裏返る。修飾句の中に評価が入っていないからだ、と最初は考えました。しかしそれでは足りません。値が裏返るには、眠ることが良くも悪くもなりうる世の中が先に必要です。
その条件はいつ揃ったのか。近代以前、睡眠は管理の対象というより、日の巡りに従う自然の周期に近いものでした。暗くなれば作業は終わり、明るくなれば始まる。人工の照明が広がり、時計によって労働の時間が区切られるようになって、夜と睡眠は初めて配分される資源になります。何時に寝て何時に起きるかが個人の裁量と規律の問題になった時点で、眠気は二つの意味を持ち始めた。規律に負けること、つまり居眠りや怠慢。あるいは規律から解放されること、つまり安眠や休息です。
この二面性が、修飾句の値の揺れとちょうど重なる。講演の場は規律の側にあるので、そこで眠くなるのは失敗を意味する。雨音は規律の外にあるので、同じ眠気が報酬になる。表現の両義性は、語の内部にあるのではなく、眠りが置かれた社会的な位置のほうにある——と、ここまで書いて自分の議論を疑いました。
疑ったのは語形のほうです。「誘う」は古くからある語で、風が花を誘う、といった他動的な使い方が昔からある。眠りを誘うという結びつきも、近代になって突然できたと考える根拠はありません。だとすると、変わったのは表現ではなく、その表現を受け取る側の事情だけということになる。言葉の歴史を語っているつもりで、実は言葉以外の歴史を語っていた。ただ、これは議論の失敗ではないとも思い直しました。語形が変わらないまま値だけが動くというのは、それ自体が一つの観察です。
眠らせるための技術という観点も入れておきます。子守唄は各地にある古い実践で、単調な反復と抑えた音量で眠りを導く点はどこでもよく似ています。ここでの眠りは目的であり、誘うことは仕事です。近代に入ると、同じ効果が別の場所に現れました。移動する車両の中で眠るという習慣は、揺れと振動と単調な音の揃った空間が日常に組み込まれてはじめて成立したものです。眠りを誘うものが、意図された行為から環境の副産物へと広がっていったことになります。
この広がりは、表現の側にも跳ね返っているはずです。誘う主体が人であれば、そこには意図がある。主体が雨や車輪や午後の光であれば、意図はない。同じ修飾句が、意図のある側とない側の両方を引き受けられるようになった。冒頭の反転も、突きつめれば意図の有無に触れているのかもしれません。講演者には眠らせる意図がなかったのに眠らせてしまった——雨音のほうは、意図がないことが最初から了解されている。責められるのは、意図と結果がずれた側だけです。
実務のほうへ持ち帰ると、二つあります。一つは長さで、この句はちょうど十拍ある。地の文に置けば文がそれだけ伸びるので、受ける名詞は短いほうが釣り合います。午後、声、揺れ、といった二拍三拍の語に付けたときがいちばん収まりがいい。もう一つは値の反転を利用する使い方です。かかる先を選ぶだけで、書き手が評価を明示せずに人物の立ち位置を示せる。退屈だと直接書かずに済むうえ、読者は自分で判定したと感じます。眠りが規律の対象になった時代の副産物を、そのまま描写の道具として使えるということです。