「猫みたいな人ですね」と言われた側が、返事の前に半拍だけ黙る。この間は、言われた内容が理解できなかったから生じるのではありません。理解はできている。問題は、それが好意的な評価なのか、そうでないのかが決まらないことです。同じ長さの沈黙は「犬みたいな人ですね」では起きにくい。動物を引き合いに出す直喩のなかでも、この比喩は評価の符号が定まらないという点で、いささか特殊な位置にいます。
直喩は、二つのものが似ていると述べるだけで、どの属性が転写されるかは指定しません。指定しないまま聞き手に渡し、聞き手が文脈から補う。この補完の過程が、語用論で言う含意の計算です。犬を引き合いに出したとき、候補は忠実さ・従順さ・人懐こさのあたりに集中し、しかもどれを取っても評価の符号は同じ向きに揃います。ところが猫の場合、候補として上がるのは、しなやかさ、身のこなしの静かさ、気まぐれ、独立心、懐かなさ、警戒心の強さ——身体的な特徴と性格的な特徴がまたがるうえに、褒めと貶しの両側に分かれてしまう。候補集合が広く、しかも符号が割れている。だから計算が一意に収束しません。
この不確定性は、欠陥であると同時に機能でもあります。符号が定まらない表現は、話し手にとって逃げ道になる。相手の非協力的な態度を指摘したいが正面から言いたくないとき、この比喩は言外にそれを含ませながら、追及されれば「しなやかだという意味です」と引き取ることができる。婉曲や緩衝としてのふるまいです。同時に、聞き手の側は、自分に向けられた評価を自分で選べる。半拍の沈黙は、選択にかかった時間だと考えると腑に落ちます。
言い切りの形と並べると、話し手が負う責任の量の差も見えてきます。「彼女は猫だ」と隠喩にすれば、断定はずっと強くなる。ところが人に動物の名を直接当てる言い方は、日本語ではほとんど罵倒の側へ落ちてしまい、褒めとしては受け取られません。「ような」を挟むと、比較の枠組みが表に出て、話し手は像の全部を引き受けずに済む。語用論では、はっきり言わずに聞き手に計算させる型の発話が、対人的な衝突を避ける手立てとして整理されてきました。会話の含意には、あとから取り消せるという性質があります。言明した内容は取り消せませんが、聞き手が計算した含みのほうは、そんなつもりはなかったと言えば形の上では消える。直喩は、その取り消し可能な領域へ評価を丸ごと預ける装置です。だから、あとで問題になったときに証拠として持ち出しにくい。録音があっても、言ったのは似ているという一言だけです。
さらに厄介なのは、計算に使われる前提が読者ごとに違うことです。猫についてどんな像を持っているかは、飼った経験、育った地域、触れてきた作品によって変わります。家に猫がいる読者と、いない読者とでは、気まぐれという属性の重みがまるで違う。書き手が想定した含意と、読者が復元した含意が一致する保証はどこにもない。比喩の解釈は読者の側の知識に依存し、書き手はそこを制御できません。共有前提が広い比喩ほど、実は届き方がばらつきます。
では、含意を最終的に確定させるのは誰か。実際の会話では、返答がそれを決めています。「よく言われます」と受ければ褒めの側で固定され、「気まぐれってことですか」と受ければ、その場の意味は貶しの側へ倒れる。話し手が意図した含みではなく、二人のやりとりが結論を作る。会話は、意味を渡す場所である前に、意味を交渉する場所です。この性質はそのまま書く側の道具になります。比喩を説明しなくても、返答の一行を置けば、読者は意味が決まっていく過程をその場で目撃できる。しかも決め方には人物が出ます。褒めとして受け取る人物と、警戒として受け取る人物は、同じ台詞を投げられて別の人生を見せる。台詞そのものを工夫するより、受け手を替えるほうが早い場面は少なくありません。
実務としての処方は単純です。転写したい属性を一つだけ、文の中に書き込んでおく。足音のなさなのか、呼んでも来ないことなのか、狭い場所に入りたがることなのか。属性を指定すれば含意は収束し、比喩は装飾から情報に変わります。指定せずに置いた場合、その表現は読者の在庫から適当な猫を呼び出すだけで、書き手が何も選ばなかったという事実だけが残る。曖昧さを機能として使うのか、単に選択を怠っているのか——その区別が自分でついているうちは、この古い比喩はまだ使えます。