石に「ここに眠る」と彫られているのを見て、なぜ「ここに寝る」ではないのかと足を止めたことがあります。意味だけを取れば、どちらも横たわって動かない状態を指しているはずです。それでも後者は成立しない。冗談にしか読めない。ここには意味の差ではなく、語が属している層の差がある。
日常語の内側では、二つの動詞は仕事を分け合っています。片方は姿勢を指し、もう片方は意識の消失を指す。だから「寝たけれど眠れなかった」は普通の文になり、逆の順序は座りが悪い。そして日常の会話で就寝を伝えるときに選ばれるのは、圧倒的に姿勢のほうの語です。もう寝る、まだ寝ない、寝坊した。意識の消失を指す語は、日常の使用域では一段よそゆきに響きます。
層をずらすと、同じ現象が別の語形をまとって現れます。医学の側では入眠、睡眠潜時、中途覚醒と漢語に寄る。日常語が抱えている温度を落とすためで、専門語が漢語に偏るのはたいていこの理由です。産業の側では休眠口座、眠っている資源といった言い方が定着している。ここでの眠りは、失われた状態ではなく、いつでも戻せる保留の状態を意味します。儀礼の側では永眠があり、こちらは戻らないことが前提です。同じ動詞が、層ごとに正反対の含みを引き受けている。
文語の層にも触れておきます。古い日本語には眠ることを表す別の動詞があり、それは現代語には残りませんでした。語が一つ消えると、それが担っていた領域は隣の語に吸収されます——今の二語体制、つまり姿勢と意識で分け合う形は、そうやって整理された結果の一つの姿にすぎない。方言に目を向ければ、同じ領域の分け方が地域ごとに少しずつ違うことも知られています。どこまでを一語で引き受けるかは、日本語全体で一つに決まっているわけではありません。
比喩の層も数に入れておくべきでした。火山が眠る、才能が眠っている、街が眠りにつく。いずれも活動の停止と再開可能性をひとまとめに述べていて、姿勢の語では代えられない。火山が寝ている、では冗談になります。ここでも選ばれるのは意識の側の語で、しかもそれが意識を持たない対象へ向けられている。擬人化の入り口として、この動詞はかなり使い勝手がいい。
役割語の面も見ておく必要があります。就寝を告げる台詞を書き分けるとき、書き手はほとんど無意識に語形を選んでいるはずです。子どもの台詞に意識消失のほうの語は出てきにくく、姿勢のほうが自然に来る。丁寧さの度合いを上げていくと、そもそも動詞ではなく休むという別語に置き換わっていく。層は語彙だけでなく、どの動詞を使わないかによっても輪郭が決まる。
ここで最初の疑問に戻ると、まだ答えになっていないことに気づきます。よそゆきだから墓碑に刻まれる、では説明が雑です。もう少し眺めて浮かんできたのは、人称の分業でした。自分の睡眠を語るときは姿勢の語を使い、他人の睡眠を眺めるときは意識の語を使う。眠るように息を引き取った、眠っている赤ん坊——どちらも観察している側の文です。自分が眠っている最中の主観は、当人には書けない。墓碑は他者が刻む文章だから、必然的に観察の側の語形になる。
この分業は、そのまま地の文の設計に使えます。人物が自分の眠気や就寝を語る場面では姿勢の語を、語り手が誰かの寝顔を眺める場面では意識の語を選ぶ。動詞を一つ選ぶだけで、視点がどこに置かれているかを読者に知らせられる。層の断層は、書き分けの制約であると同時に、無料で使える座標でもあります。