言語学者ファースが残した、語はそれが連れ立つ仲間によって知られる、という主旨の言い方があります。意味を定義から与えるのではなく、その語の周囲に何が現れるかの分布から近似する。この考えは後に計算機による自然言語処理の基礎になりましたが、辞書を作らない書き手にとっても実用的です。ある動詞の性格を知りたければ、定義を読むより、その動詞の直前に立つ助詞つきの名詞を思いつく限り並べてみるほうが早い。並べた集合に偏りがあれば、それが語の輪郭です。
この動詞の左隣に集まる名詞を書き出すと、集合はきれいに二つに割れます。片方は人です。友人を、客を、相手を。もう片方は人ではありません。涙を、眠気を、連想を、笑いを。前者では主語が意志を持つ人間で、動作は働きかけです。後者では主語はしばしば無生物や出来事で、動作は因果の記述に近い。夕暮れの光が郷愁を呼ぶとき、光には意図がない。同じ語形が、意図の動詞と因果の動詞という異なる型を兼ねている。辞書は両方を一項目にまとめますが、共起の分布で見ると、両者はほとんど別の語です。
割れ目は、もう一つ別の場所にも現れます。人を目的語に取る側だけが、二つ目の格を連れてくるのです。友人を食事に誘う、後輩を飲みに、家族を旅行に。ヲ格に人、ニ格に出来事という枠がそろって立つ。ニ格の位置に集まる名詞を書き出してみると、食事、飲み、映画、旅行、稽古と、どれも時間の幅を持つ出来事の名前です。物の名はここに入りません。新しい鞄に誘う、とは言えない。公園に誘う、は成立しますが、これは場所そのものではなく、そこで過ごす時間のほうを指しています。一方、涙や眠気を目的語に取る側は、この二つ目の格をまったく取らない。どこへ、と問える型と、問えない型がある。同じ語形が異なる二つの型を兼ねているという先ほどの観察は、格の枠がひとつ多いか少ないかという形でも裏づけられます。
この二型は、文体の層とも相関します。抽象名詞を目的語にとる用法は書き言葉に強く偏り、会話文にはめったに現れません。登場人物が友人に声をかける場面で「涙を誘った」とは口にしない。逆に地の文では、無生物主語の型が頻繁に働きます。厳密な統計を挙げられるわけではありませんが、経験的には、地の文と会話文でこの動詞の型が入れ替わることは、原稿を検索して確かめられる程度に明瞭です。原稿内で一語を検索し、ヒット箇所が会話の中か外かを数えるだけで、自分の書き癖が可視化されます。
受動形の分布も面白い偏りを見せます。能動の「誘う」は行為の記述で終わりますが、受動の「誘われる」は、しばしば断ったか受けたかという後続の判断を引き連れます。誘われて断る、誘われて迷う。受動形が心理の入口として機能しているわけです。そして受動にできるのも、人を目的語に取る型だけです。涙を誘われた、眠気を誘われた、とは書けない。因果の側の用法は、受け手を文の主語に立てられないところで止まっています。これは他の働きかけの動詞にも見られる傾向で、能動側が出来事を、受動側が内面を担う。語の分布は、そのまま視点の分布でもある。誰の内面を書くかを決めると、動詞の態は半分自動的に決まってしまいます。
ただし、数える側に回るなら、先に片づけておくべき落とし穴があります。この漢字表記は二つの語に対応していて、「さそう」とも「いざなう」とも読める。後者は書き言葉に強く偏り、しかも連れ立つ語がまるで違います。眠りへ、異界へ、記憶の底へ——置かれるのは人でも生理現象でもなく、行き着く先にあたる状態や場所です。三つ目の型が、同じ字面の下に隠れていることになる。原稿を検索して件数を出すとき、機械が見ているのは表記だけですから、三つの型は一つの数字に合算されます。読みを分けないまま出した頻度は、この語に関しては手掛かりになりません。数えるという作業には、数える前に単位を決めるという作業が含まれています。
原稿の実務としては、二つの型を同じ段落で混ぜないことが効きます。人が人を誘う場面のただ中で、風景が感傷を呼ぶ、という文を挟むと、行為の時間が止まって語り手の声だけが浮き上がる。効果を狙って挟むなら構いませんが、無自覚に混ざると文体が濁ります。もうひとつ、無生物主語の型は便利すぎるので、一話に何度も出ると地の文が既製品めいてくる。検索してヒット数を数え、多すぎたら因果を主語と述語に開いて書き直す——語の分布を測ることは、書き癖を外から見る数少ない方法のひとつです。