重い荷物と重たい荷物はどう違うか、と考え始めると意外に足を取られます。指しているものは同じはずです。それでも、精密機械の仕様書に「重たい」と書いてあったら妙な感じがする。二つは交換できるようで、置ける場所が違う。この差はどこから来ているのか、しばらく答えが出ませんでした。
手がかりは、同じ形をした語を集めたところにありました。重たい、煙たい、眠たい、じれったい、後ろめたい。並ぶのは、どこか居心地の悪い側の語ばかりです。共通しているのは、いずれも話し手にとって望ましくない感覚だということです。軽たい、嬉したい、涼したいといった形は存在しない。この非対称が偶然でないとすれば、この接尾辞は単に語を長くしているのではなく、その感覚を被っている人がいるという情報を足していることになります。物の属性ではなく、経験者の側の負担を標示している。
この見方で本題に戻ると、いったんはうまく収まります。短い形は状態の記述に近く、長い形は当人の被っている感じが前に出る。だから子どもの台詞には長い形が来やすく、報告調の地の文には短い形が合う。ところが実例を思い浮かべていくと、輪郭がすぐ怪しくなりました。眠たい目をこするのも眠い目をこするのも、どちらも書ける。眠たそうな顔、眠そうな顔、どちらも通る。差があるのは確かなのに、境界線を引こうとすると手からこぼれる。
そこで、二つを別語として切り分けるのをやめました。同じ意味のまとまりの中で、焦点の当たる位置が少しずれているだけだと考えるほうが実態に近い。短い形の焦点は状態そのものにあり、長い形の焦点はそれを被っている人にある。焦点の差なので、文脈がどちらかを強く要求しないかぎり、両方とも成立してしまう。境界が引けないのは、そもそも境界のない種類の差だったからです。
この見立てを補強しそうな例が一つあります。他人の状態を外から推し量って述べる「がる」を付けると、長い形のほうがすんなり通る。眠たがる子ども、という言い方はすぐ出てくるのに、短い形に同じ接尾辞を付けた形は口に馴染みません。「がる」は経験者がいることを前提にした形式です。その形式が、経験者を標示する語形とだけ結びついている。偶然にしては噛み合いすぎている、と感じます。もっとも、単に音の座りの問題だと言われれば、それを退ける材料は手元にありません。
否定形にも差が出ます。眠くない、眠たくない。前者は状態の否認としてそのまま使えますが、後者はどこか反発の色を帯びる。まだ眠たくない、と口にするとき、そこには眠らされそうになっている状況への抵抗が混じっている——経験者を立てる語形は、否定するときにも経験者ごと立ち上がってしまうからでしょう。焦点がどこに当たっているかは、肯定形より否定形のほうが観察しやすい。
ただし、まだ処理できていない要素が一つ残ります。長い形は四拍あり、短い形は三拍しかない。口語がくだけるほど語形が伸びる例は他にもあり、この差が意味の問題なのか音の問題なのか、私にはまだ判断がつきません。両方が絡んでいるという説明はいつでもできますが、それは説明を諦めたのと同じでしょう。
それでも実務に持ち帰れることはあります。台詞には長い形、地の文の状態記述には短い形——この振り分けは、経験者を標示するかどうかという理屈と噛み合っています。台詞は話し手が自分について語る場所であり、負担の標示がそのまま話者の存在感になる。逆に、三人称の地の文で長い形を続けると、語り手が人物に寄りすぎて距離が消える。眠っているのは人物のはずなのに、書いている側が眠そうに見えてくる。