光を測る装置には、測れる範囲の上端があります。それを超えた入力は、どれだけ強くても同じ値を返す。飽和と呼ばれる現象で、装置が壊れるわけではありません。壊れるのは、区別する能力のほうです。強い光と、その十倍の光が、記録の上ではまったく同じ数字になる。装置は正常に動作し、ただ何も言っていない。困るのは、記録を読む側にはその状態が見えないことです。飽和した値も、余裕のある値も、同じ桁の数字として並びます。強調表現を考えるときに、この絵がずっと頭にあります。
人間の感覚のほうも、入力をそのまま出力してはいません。明るさや重さの感覚が、刺激の強さの対数におおむね比例するという整理が、心理物理学の古典的な知見としてあります。対数は単調増加ですから、順序は保たれる——強いほうは強いと分かる。ただし差は圧縮される。二倍と四倍の隔たりは、百倍と二百倍の隔たりと、感覚の上ではほぼ同じ幅になります。この圧縮のおかげで、月明かりから真昼の陽射しまで、桁の違う光を同じ一つの目で扱える。感覚が正直でないことが、感覚の有用性を支えている。
この整理には、後から異議が出ています。刺激の強さと感覚の大きさの関係は、対数よりべき関数のほうがよく合うという主張が二十世紀の半ばに提出され、以来、どちらの式を採るかは刺激の種類によるという扱いになりました。ここで確かめておきたいのは、どちらを採っても手前の議論が壊れないという点です。対数でも、指数が一を下回るべき関数でも、出力は入力より圧縮される。順序は保たれ、差だけが縮みます。結論が式の細部に依存しないと分かれば、心理物理の論争の決着を待たずに先へ進めます。ここから借りるのは、感覚が入力を圧縮するという一点だけで、それで足りる。
言葉の強度表現にも似た構造がありそうだ、と言いたくなりますが、ここで慎重になりたい。感覚の圧縮は連続的な写像ですが、語彙は離散的です。明るい、まぶしい、目も眩むような——これは連続量ではなく、順序だけを持つ有限の階段にすぎない。有限の全順序集合には最大元があります。最大元を使ってしまえば、その上に置く語がない。以後どんな光を書いても、読者の内部では同じ高さに潰れる。飽和とは、写像が単射でなくなることだと言い換えられます。異なる入力が同じ出力に落ちる。区別する能力の喪失は、ここでも表現の側ではなく受け手の側に起きる。
とすると、これは一語の善し悪しの話ではなく、配分の話になります。ひとつの作品で使える最大級の表現は、有限の資源です。しかも減るだけで、書き手の側から補充する手立てがない。序盤で最大元を消費すると、終盤の山場は相対的に沈む。逆に階段の下のほうを丁寧に使い分けておけば、最大元は一度で効く。ここで自分に異議を出しておくと、読者の記憶は完全ではないので、離れた場所で二度使っても実際には潰れないかもしれない。それでも、同一場面や同一章の中では潰れます。飽和が起きる範囲は作品全体ではなく、読者が同時に保持している窓の中だと考えたほうが、実感に近い。章をまたいで再登場した最上級が咎められないのは、読者の窓から前回の記録がすでに落ちているからでしょう。
階段の頂上が一つだとも限りません。気が遠くなるような、息を呑むような、言葉を失うような。これらは互いに上下の関係を持たず、同じ高さに横並びになっています。順序集合の言葉で言えば、最大元が一つあるのではなく、極大元が複数ある状態です。上へ伸ばしたつもりで隣の極大元へ移っても、読者の内部では高さが変わりません。最上級の語を畳みかける書き方が効かないのは、このためだと思います。三つ並べても三倍の高さにはならない。同じ高さの点を三つ打っただけで、しかも三度目には、書き手が高さを稼ごうとしていることのほうが先に読み取られます。
もうひとつ、上限そのものをずらす手もあります。明るさという一本の軸を強めるのではなく、別の軸を足す。持続の長さ、痛みの有無、目を閉じたあとに残る色。軸を増やせば、一つの軸が飽和しても、組み合わせとしての区別は残ります。二次元の空間では、片方の座標が天井に張り付いていても、もう片方が動くかぎり点は別の場所にある。「目も眩むような」を使ったあとに、まだ書くべき光があるなら、明るさの軸から降りて別の軸へ移ればいい。同じ軸をもう一段強く押し上げようとする試みだけが、確実に空振りします。