眠気を人に伝えようとするとき、手が伸びる語彙はいくつかの方向に固まっています。重い。深い。落ちる。霞む。とろける。並べてみると、どれも眠気そのものを指す語ではありません。重量、深度、落下、視界、状態変化。別の領域から借りてきた言葉で、身体の中の出来事を言い当てようとしている。認知言語学では、この借り方が場当たりではなく、いくつかの決まった経路を通ると考えます。
いちばん強いのは上下の軸です。意識が落ちる、眠りに落ちる、深い眠り、浅い眠り。覚醒が上、睡眠が下。この配置には身体の裏付けがあります。起きている間は立っているか座っているかで、頭は高い位置にある。眠るときは横たわり、頭が下がる。姿勢の垂直性が、そのまま意識の水準の垂直性へ写し取られている。しかも落下は自分では止められない出来事です。抗いようのなさまで一緒に運ばれてくる。
ただ、この軸だけで片づけようとすると取りこぼしが出ます。「眠りにつく」は落ちていません。「就く」は職に就く、席に就くと同じ形で、ある位置に到達する動きです。落下と着席が同じ現象に同居している。「まどろむ」に至っては上下ですらなく、水平方向のゆらぎに近い。一つの経路で全部説明できると思った瞬間に、反例が三つ出てくる——ここで立ち止まっておくべきでした。方向の比喩は複数あって、話者はそのつど違う方向を選んでいる。
もう一つの軸である重さは、比喩と実感の境目が曖昧です。瞼が重い、と言うとき、これは修辞である以前にかなり物理的な報告に近い。眼を開いておく筋の働きが落ちれば、瞼は実際に落ちてきます。頭が重いのも、姿勢を保つ筋緊張が下がった結果として説明がつく。比喩の根が身体の出来事に直結している例で、だからこの言い方は古びにくい。
三つ目の軸として、視界があります。霞む、ぼやける、遠のく。これらは眠気そのものではなく、それに伴って起きる知覚の変化を述べている。前の二つが自分の身体の内側を指していたのに対し、この軸だけは外界の見え方を経由します。書き分けの観点からは、この違いがかなり効く。内側の軸を使えば読者は人物の中に入り、視界の軸を使えば人物の目の位置から外を見ることになる。同じ眠気を書きながら、読者を立たせる場所が入れ替わる。
さらに粘度の語彙も混じります。とろける、泥のよう、溶ける。液体の比喩が呼ばれるのは、輪郭が失われることを言うためです。固体から液体への変化が、覚醒時の縁のはっきりした自己から境界の曖昧な状態への移行に重ねられている——垂直でも重量でもなく、物質の相そのものを借りている点で、この軸だけ少し毛色が違う。眠気の描写に手垢がつきやすいのは、この四つ目の軸が最も慣用句化しているからでもあります。
書く側から見ると、選ぶべきはどの軸かという問題になります。落下系を選ぶと、その人物は抵抗をやめています。まぶたが落ちた、と書いた時点で、意識は本人の手を離れている。重量系を選ぶと、まだ抵抗が続いている。重い瞼を押し上げて、という文には、押し上げる主語が残っているからです。同じ状態を書きながら、人物が状況とどう関わっているかが入れ替わる。眠気の描写がしばしば退屈になる原因は、語彙の乏しさより、どちらの軸も無選択に混ぜてしまうことにあるのでしょう。