十二拍、形態素にして六つ。連体修飾語としてはかなり長い部類に入ります。同じ位置に置ける語を並べてみると、その長さは際立ちます。眩しい、麗しい、穏やかな——どれも短く、対象の属性を直接に名指している。ところがこの長い言い回しは、対象の属性をひとことも述べていません。述べているのは、それを見た者の身体に起こる反応の、そのまた手前にある欲求です。属性を言わずに属性を伝えるという迂回が、この語の設計の中心にあります。
意味論の用語で言えば、これは傾向性による定義に近い構造をしています。ガラスが割れやすいという性質は、いま割れていることではなく、一定の条件下で割れるという条件つきの傾向として定義されます。同じように、この修飾語が与えるのは「見る者に、ある動作をしたいと思わせる」という条件つきの傾向です。対象そのものの色や強度や形状ではなく、対象と観察者のあいだに生じる関係が属性の位置に据えられている。日本語には、泣きたくなるような、叫びたくなるような、抱きしめたくなるような、といった同型の表現が数多くあり、いずれも同じ迂回路を通ります。属性の直示を避けて、誘発される反応から逆算させる型です。
ここで文法の側から一つ補助線を引くと、構造の妙がはっきりします。願望を表す「たい」は、通常の文では話し手自身にしか使えません。彼は行きたい、と言い切ると座りが悪く、行きたがっている、と直す必要が出てきます。ところが「たくなるような」という形で連体修飾に埋め込まれると、この人称の制約がほどけます。誰か特定の人物が細めたいと思ったのではなく、見る者一般がそう傾く、という非人称の記述になる。願望の形式を借りながら、願望の主を消してしまう。この消去があるからこそ、風景でも人物でも道具でも、この修飾語は同じ調子で掛けられます。
もう一つ、この表現には多義の重なりが畳み込まれています。瞼を狭めるという動作には、少なくとも二つの動機があります。光が強すぎて視覚を守るため。そして、対象を慈しむとき、笑いの筋肉が動いた結果として。前者は防御であり、後者は接近です。方向が正反対でありながら、日本語はこの二つを同じ動作語で受けてきました。「たくなるような」を付けると、この二義はどちらか一方に絞られるのではなく、多くの場合そのまま重なったまま運ばれます。眩しくて直視しがたいという距離の感覚と、微笑ましくて見守りたいという親密さが、同時に成立してしまう。曖昧なのではなく、両立しているのだと考えたほうが、この語の使われ方をよく説明できます。
書き手にとっての利点と危険は、同じ場所から来ます。対象を描写しないまま、読者の身体反応を先に起動できる——これは強力な近道です。しかし近道である以上、具体を書かずに済ませる口実にもなる。何が眩しかったのか、どこが微笑ましかったのかを一つも書かないまま、この修飾語だけを置いた文は、読者の内部で像を結びません。実用的な目安を一つ挙げるなら、この語を使う文の直前か直後に、視覚的な事実を一つだけ置くことです。逆光の輪郭でも、袖口の綻びでも構いません。傾向性としての属性は、それを引き起こす具体的な条件が示されて初めて、読者の側で検証可能になります。