一九一八年、鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を創刊しました。子どものために書かれた読み物の質を上げようという趣旨で、当時の有力な作家たちが寄稿しています。この雑誌を軸に語られる潮流はしばしば童心主義と呼ばれ、子どもを大人とは別種の、汚れを知らない存在として描く傾向を持っていました。語そのものは漢語として古くからあるものですが、こうした言葉が価値を担う語として置かれる場所が用意されたのは、この時期の日本語だったのだろうと思います。歴史の側から語を眺めると、意味よりも先に、その語が必要とされた事情のほうが見えてきます。
事情のほうを追ってみます。近代の学校制度は、明治五年の学制に始まり、その後の制度改正を重ねて義務教育を広げていきました。制度が整うにつれて、それまで家業の労働力の一部だった年少者が、教育を受ける対象として社会的に切り出されていきます。子ども期という区画が制度によって輪郭を与えられたとき、その区画に固有の性質を名指す語彙が必要になった。無邪気、無垢、そしてこの語。いずれも中身は「まだ何かを知らない」という否定形ですが、否定形のまま肯定的な評価語として流通しました。知らないことが価値になるのは、知ることが労働と結びついていた時代からの、はっきりした転換だったはずです。同じ頃に子ども向けの読み物、子ども向けの衣服、子ども向けの唱歌が別々の市場として立ち上がっていったことを思えば、語彙もまた、その区画を維持するための備品の一つだったと見ることができます。
ただ、ここで話を美しくまとめたくない。この語が向けられた先は子どもだけではありませんでした。同じ時期に整えられていった女性像——良妻賢母という枠組みや、少女向け雑誌が育てた読者像——にも、同じ語彙が流れ込んでいます。そして褒め言葉というものは、繰り返し向けられるうちに期待に変わる。汚れを知らないことを称賛された側には、知ってしまったことを見せない必要が生じます。評価語が規範として機能しはじめる瞬間で、これは称賛の副作用というより、称賛の構造そのものに含まれていたものでしょう。
戦後の児童文学が、この童心主義への反発から出発した面がある、という整理はよく行われます。子どもは無垢ではなく、残酷さも計算も持っている——そう書くことのほうに新しさがあった時期が確かにありました。とはいえ語が滅びたわけではない。滅びずに、使うと少し身構えるような手触りだけが残った。現在この語を選ぶと、百年分の議論をまたいで選んだことになります。手触りの正体を言葉にするのは難しいのですが、皮肉として使うことがきわめて容易だという点は、その一つの現れでしょう。称賛としてしか使えない語は皮肉に転用しにくい。転用が容易だということは、この語がすでに一度、疑われた経験を持っているという意味だと思います。
そこから実務的な話が一つ出てきます。人物をこの語で評するとき、評されている側より、評している側の位置のほうが読者に伝わる。汚れを知らないと判定できるのは、判定する側が既に知っている場合だけだからです。語り手と対象のあいだに、年齢差か、経験の差か、少なくとも上下の勾配が発生する。だから対等な関係にある二人の一方が相手をこう呼ぶと、そこに読者は勾配を読み取ります。褒めたつもりの一語が関係の図を書き換えてしまう。歴史がこの語に残したのは、意味ではなく、その勾配のほうかもしれません。