道を尋ねられて「まっすぐ行って、二つ目の角を右」と答えるとき、その「まっすぐ」は足の運ぶ方向のことです。ところが同じ語を人の物言いに移すと、意味の足場が音もなく入れ替わる。まっすぐな言い方、という表現は誰にでも通じるのに、そこには直線が一本も引かれていない。空間の語彙が態度の語彙へ滑る現象そのものは、認知言語学が概念メタファーと呼んで整理してきたもので、英語の straight にも似た滑りがあります。ただ、名前がついたからといって腑に落ちたわけではありません。なぜ直線のほうが誠実の側に配られたのか。自然界に多いのは曲線のほうで、まっすぐな線を引くには定規という道具が要ります。誠実さのほうが、むしろ人工的な形に喩えられている。
字を見ると、この語の後半は「直」です。前半の「率」には引き連れるという意味と、飾らないという意味があり、ここでは後者が働いていると考えられます。似た方向の字を二つ重ねた語だということになる。ここで少し引っかかります。「直」が運んでいるのは、本当に直線でしょうか。直立の直はたしかに形の話ですが、直接、直談判、直に会う——こちらの「直」は線ではなく、あいだに何も挟まらないことを指しています。仲介者がいない。間に何も置かない。形状の意味と媒介の意味が同じ字に同居していて、この語がどちらを受け継いだのかは、字面をいくら眺めても決まりません。
考え直してみると、比喩が測っているのは長さではなさそうです。長く飾らずに話すこともできるし、短い一言で人を欺くこともできる。反対側に並ぶ表現を見ても、遠回しに言う、はぐらかす、話を逸らす、回りくどい——どれも経路の形についての語彙で、距離の語彙ではありません。曲がる回数がゼロであること。それがこの直線像の中身だと考えると、ひとまず話は通ります。そう考えたとたん、妙なものが目に入る。「率直に言えば」という前置きです。向きを変えない話し方であるなら、宣言を挟む余地もないはずなのに、この前置きは会話の中で確かに機能している。運んでいるのは直線ではなく、これから相手に不都合なことを言うという予告——衝突の緩衝材のほうです。
さらに厄介なのは、この性質を語る言い方に、まったく別系統の身体像が混ざっていることです。腹を割る、胸襟を開く、包み隠さない。こちらは経路ではなく容器の比喩で、内側にあるものが外から見えるかどうかを問題にしている。経路型は話の進み方の性質、容器型は情報の出し入れの性質で、論理的には独立しています。まっすぐ喋りながら肝心なことを伏せている人もいるし、隠し事はないのに話が延々と迂回する人もいる。それでも日本語はこの二つを一つの語のもとに束ねる。束ねられていることに気づくまで、両者が別物だという感覚は持ちにくいものです。
分かれ目が見えると、人物の書き分けに使えます。経路型を与えるなら、台詞から前置きと条件節を落とす。「言いにくいのですが」「立場上お答えしかねますが」を削るだけで、その人物は途中で向きを変えなくなる。容器型なら、伏せていた事実をどの場面で開くかを設計する問題になり、削る作業ではなく順序の作業です。両方を一度に盛った人物は、率直というより輪郭を失う。定規で引いた線と、蓋を開けた器。同じ一語が抱えている二つの像のうち、自分がどちらを書いているのかだけは、書き手の側で決めておいたほうがいい。