机を壁に寄せる。身を寄せる。心を寄せる。期待を寄せる。同じ動詞が、家具の移動から抽象的な感情の向け先までを一続きに扱っています。共通しているのは、ある基準点があって、対象をそこへ近づけるという構図です。基準点は壁であったり、人であったり、話題であったりする。認知言語学が空間から抽象への写像と呼ぶのは、こういう事態です。物理的な位置関係を扱うために発達した語が、位置とは無関係な領域へそのまま持ち込まれ、しかも誰にも説明を要求しない。
顔の場合、基準点はどこでしょうか。眉間です。左右の眉が正中線へ向かって近づき、その間の皮膚が縦に畝を作る。つまりこれは、周辺にあるものを中心へ集める動作として記述されている。認知言語学では中心と周辺という図式が基本的なイメージスキーマのひとつに数えられます。散らばったものが一点へ収束する形。この形は、注意の集中や範囲の縮小といった抽象的な事態を表すのにも繰り返し使われます。
なぜ収束が否定的な意味を帯びるのか。ここには身体的な根拠がありそうです。まぶしい光を見るとき、遠くの小さな字を読もうとするとき、人の顔は自然にこの形になります。視野を絞り、余分な光を遮り、情報を一点へ集めようとする。生理的には、それは困難への対処です。そして考えごとで行き詰まったときにも、痛みを感じたときにも、似た筋肉が働く。視覚的な負荷と認知的な負荷と身体的な不快が、同じ顔面の形を共有している——だから「わからない」と「気に入らない」と「痛い」が、外から見ると区別しにくい。この曖昧さは表現の欠陥ではなく、身体がもともと持っている多義性です。
反対方向の図式もあります。愁眉を開く、という成句が示すとおり、開くのは解放です。集めるのが拘束で、開くのが解放。この対は空間的な図式としてきれいに対応しています。ただし現代語では、開く側の表現がほとんど使われなくなりました。安堵を表す慣用句としては別の言い方が優勢になっている。収束の側だけが日常語として残り、拡散の側が古語の棚へ退いた——この非対称は、否定的な状態のほうが名指す必要に迫られやすいという事情と関係があるのかもしれません。
寄せる、という選択には相のニュアンスもあります。しかめる、が瞬間的な変形を思わせるのに対し、この動詞は近づけた状態がそのまま続く感じを残します。近づけたものは、離すまでそこにある。だから短く鋭い不快には向かず、しばらく続く困惑や、考えあぐねている時間に向く。同じ顔面の運動を指しながら、動詞の選択が持続時間を指定してしまう。
表情を書くときに感情の名前から出発すると、選択肢は感情の種類だけになります。怒りか、困惑か、不快か。しかし動詞の空間図式から出発すると、別の軸が現れる。集めるのか開くのか、瞬間なのか持続なのか、意図的なのか不随意なのか。顔面の運動は幾何学的な変形として記述でき、その変形の性質が、名前を出さずに感情の輪郭を伝えます。感情のラベルを貼るかわりに、身体の形を書く。表情描写が痩せてくるのは、たいてい、この幾何を忘れて名前だけを扱っているときです。