「添い遂げる」という言い方を、結婚式の挨拶以外で聞くことがほとんどなくなりました。使われる場所が儀礼に限られている語は、意味が固まる代わりに、日常の中で動けなくなります。同じ動詞を含む「連れ添う」も似た位置にあって、老夫婦を指すとき以外にはあまり出てこない。ところが「寄り添う」だけは違う棚に残っていて、恋人にも、家族にも、犬にも、音楽にも使える。同じ「添う」を抱えているのに、片方は儀礼へ退き、片方は広がった。この分かれ目がどこにあったのかを見ていきます。
古い層では「添う」は、そばに付く意から進んで、夫婦になる意まで担っていました。「連れ添う」や「添い遂げる」が婚姻の語彙として残っているのは、その名残です。一方「寄り添う」は、寄るという動詞をもう一つ重ねた複合で、寄るも添うも近づくことを言うので、意味が半分ほど重複しています。重複は語を鈍らせます。焦点がぼやける代わりに、どの方向にも伸びられる。婚姻という一点に縛られた語と、近づくという一般的な形だけを残した語とで、その後の伸びしろが変わった——分かれ目の一つは、複合の作り方そのものにあったのだと思います。
同じ「寄る」を前に置いた複合動詞を並べてみると、評価の割れ方が目につきます。立ち寄る、駆け寄る、近寄る、擦り寄る、忍び寄る。近づくという一点では共通しているのに、擦り寄るは打算を、忍び寄るは危険を連れてくる。近づき方を限定する前の要素が、そのまま評価の符号まで決めているわけです。ところが「寄り添う」の前部要素は「寄る」そのもので、近づき方について何ひとつ足しません。速さも、姿勢も、意図も指定されない。無色であることが、この語を無害な位置へ置いたのだと思います。悪い意味では使いようがない複合動詞というのは、数えてみるとそう多くありません。
もう一つは、近代の小説が身体の距離を書く語彙を選び直した時期にあります。言文一致以後の口語体で、人物と人物の物理的な近さをどう書くかは、意外に選択肢が少ない。「抱く」「触れる」は強く、性愛の含みを避けられない。「並ぶ」「座る」は近さを数値で示すだけで、体温が出ない。「寄り添う」は、接触を描きながら性愛の側へ倒れない、かなり珍しい位置に落ち着きました。だから恋愛の場面でも、看取りの場面でも、幼い姉妹の場面でも同じ語が使える。汎用性は美点として獲得されたというより、他に代わりがなかった結果に見えます。代役として呼ばれた語は、たいてい後から働きすぎることになります。
その汎用性が、いまは磨耗の理由になっています。近年は支援や介護の文脈で決まり文句として定着し、態度を表す抽象語として使われることが増えました。物理的な近さを一度も想像させずに通り過ぎていく用例が多い。ここで、だから使えない語だと結論したくなるのですが、それは早い。この動詞は主語を二つ要求するのに、二つが対等である必要はありません。片方だけが寄り、もう片方は動かない。寄られた側が気づいていない。定型句が塗りつぶしているのは、この非対称のほうです。
磨耗の仕組みは、主語の席を見るとはっきりします。決まり文句として現れるとき、そこに座っているのはたいてい組織や制度です。住民に寄り添った施策、地域に寄り添う事業——組織に体はありませんから、縮めるべき距離も、傾ける肩もない。身体の比喩でありながら、身体の側が空席になっている。空席のまま成立する語は、便利であるぶん、何も述べていなくても文として通ってしまいます。批判されやすいのは、態度を表明しながら、その態度が何をするのかを一切指定しないからでしょう。裏を返せば、この語を生かす手は決まっています。寄る側の体を、必ず一つ書く。誰の肩が、どちらへ、どれだけ傾いたのか。
そして連体形にした「寄り添うような」は、比喩の形式である以上、実際には寄り添っていないことを示します。似ているだけで、触れてはいない——接触を書くために選ばれてきた語が、接触していない状態を書くための道具になっている。声を「寄り添うような」と形容するとき、声と体のあいだには距離があり、その距離があるからこそ近さが言える。見立てる相手は、声にかぎりません。灯り、雨脚、伴奏、話の運び——どれも体を持たないものばかりで、比喩の底には最初から接触がない。婚姻を意味した動詞が数百年かけて到達したのは、触れずに触れる、という書き方の位置でした。