原稿を通しで読み返していて、同じ動作が三度出てくることに気づく、という経験があります。一度目は場面に合っていた。二度目は流れた。三度目で、これは自分の癖だと分かる。書き手が無意識に手を伸ばす慣用句には、たいてい身体の一部が入っています。手を握りしめる、肩をすくめる、そして眉のあたりの動きを言う句。数え終えるまで、自分がどれを何回使ったかは分かりません。ただ、数え終えたあとに残る問いのほうが厄介です。なぜこの句は、これほど手に馴染むのか。
眉をわずかにひそめる、とは書けます。眉を深くひそめる、も通る。ところが眉と目をひそめる、とは書けない。慣用句がどれくらい固まっているかは、意味を眺めていてもわかりません。わかるのは、実際の文でその句がどこまで変形を受け入れるかを、一つずつ試したときです。間に語を挟めるか。語順を入れ替えられるか。受身にできるか。片方だけを別の語に差し替えられるか。固い句ほど、これらの操作に失敗します。
まず目的語の側のスロットを見てみます。眉を取れる動詞を並べると、上げる、下げる、寄せる、しかめる、動かす、曇らせる、つり上げる、逆立てる。日本語の動詞の総数から見れば、驚くほど少ない。逆方向はもっと狭くなります。この動詞のほうは、現代語では眉のほかにほとんど相手を持たず、同じ音を持つ別語が声や身を取るのを別にすれば、組める名詞は片手で足ります。組み合わせの空間は広いのに、実際に踏み固められているのはごく狭い場所だけです。固さの分布も、句の内部で一様ではありません。動詞の側は修飾を受け入れます。わずかに、少しだけ、といった副詞は問題なく入る。ところが名詞の側はほとんど動かない。眉を目に差し替えることはできず、受身にして「眉がひそめられた」と書けば、その一文だけ翻訳調に浮き上がります。固定は句全体にかかっているのではなく、スロットごとに強さが違う。どちらのスロットが固いかを知らないまま推敲すると、動く側ばかり触って、句そのものは最後まで固いままになります。
手に馴染む理由の一部は、計量でも近づけます。二つの語がどれくらい強く結びついているかを測るとき、共起した回数を数えるだけでは足りません。どちらも高頻度の語なら、意味の関係がなくても同じ文に現れてしまうからです。そこで、二語が別々に現れる確率の積と、実際に一緒に現れる確率とを比べ、その比の対数を取る指標が使われます。個々には珍しい語どうしが繰り返し隣り合っていれば、値は大きく出る。この句を構成する二語は、どちらも日常語彙として飛び抜けて高頻度というわけではありません。それでも一緒に現れる——指標の上では、かなり強い結合として測られる部類に入るはずです。読者の側の予測も、この結合の強さをそのまま反映します。手に馴染むという感触は、語感の問題である前に、分布の問題でもあるわけです。しかも、この値は書き手ひとりの努力では動かせない量です。
固さには代償があります。固まった句は、語の連なりとしてではなく、ひとつづきの記号として読まれる。読者は「眉を」まで来た時点で残りを回収してしまい、句の内部で立ち止まりません。読む速度が落ちないということは、そこに注意が留まらないということでもある。否定的な評価を音を立てずに置きたい場面には理想的な道具ですが、印象を残したい場面では働かない。滑らかさと透明さは、同じ性質の裏と表です。同じ句を一つの章に三度置いても、読者はおそらく二度目までしか意識に上げないでしょう。透明な句は、繰り返しても負担が小さいかわりに、繰り返した効果のほうも残りません。
ほどきたいなら、固いほうのスロットを触ることになります。動詞に副詞を足しても句は固いままで、効くのは名詞側を捨てるか、句そのものを分解するかのどちらかです。眉の間が寄り、視線が一瞬だけ卓に落ちる、というように動作の順序へ割り直すと、字数は増えますが、読者は通過せずに見る。ただし全部を分解すれば文は重くなる。固い句は速く読ませたい場所へ、分解した描写は止めたい場所へ配る——判断はその配分のところにあります。
書き手ごとに、抱えている固い句の在庫は違います。眉に集中している人、手に集中している人、呼吸に集中している人がいる。どれが優れているという話ではありません。ただ、自分の在庫を一度書き出してしまうと、次からは無意識ではなく選択として使うことになる。慣用句を数える作業の効用は、順位表を得ることではなく、そこにあります。