日本語の定型詩は五と七でできています。俳句や短歌の骨格が拍(モーラ)の数で決まることは広く知られていますが、この数の感覚は散文にも残っている。かなしげは四拍。ほぼ同じ内容を伝えるかなしそうは五拍です。意味の差はわずかなのに、拍が一つ違うだけで、文の中での収まりが変わります。この一拍は、読む速度としては微差ですが、同じ修飾が何十回も現れる長編では、積み重なって文章全体の呼吸を決める。
定型の枠に当てはめると、差はもっと目に見える形になります。連体形にすれば、かなしげな は か・な・し・げ・な の五拍で、五音の句にちょうど収まる。かなしそうな は か・な・し・そ・う・な の六拍で、一拍はみ出します。俳句や短歌を作る場では、この一拍が妥協できない差になり、選べる語のほうが限られる。散文にそこまでの制約はありませんが、日本語の読み手は五音と七音の並びを長く聞いて育っているので、枠に収まる語形は文の中でも落ち着いて見えます。接頭辞をつけて もの・か・な・し・げ とすれば六拍で、こちらは二拍ずつ三組に割れる形になり、これはこれで安定する。拍数は、意味の細かさとは無関係に、その語を置ける場所のほうを選んでしまいます。
接尾辞の「げ」は、気に由来するとされています。付いた結果できあがる四拍という長さのほうにも、日本語の側の事情があります。二拍をひと組にした単位が語形の骨格になりやすいことは、短縮語の作られ方によく現れている。四拍の語は、二拍と二拍にきれいに割れます。かなしげは、かな/しげ と等分できる形です。ところが五拍のかなしそうは、二と三に割るしかない。割り切れる語は口の中で安定し、割り切れない語は、どこで息を継ぐかを話者に選ばせます。意味の差ではなく、この分割のしやすさが、二語の据わりの違いの一部を作っている。
母音の並びも見ておきます。かなしげは a-a-i-e。広い母音が二つ続き、狭い i を通って、中間の e で終わる。開いて、閉じて、また少し開いて止まる。対するかなしそうは a-a-i-o-u で、語末が長音として伸びます。伸びる語尾は推量の柔らかさを持ち、切れる語尾は観察の断定に寄る——同じ推量の表現でも、音をどこで切るかで、話者と対象の距離が違って聞こえます。前者は相手に近づいて確かめている感じ、後者は少し離れた場所から見ている感じ。文法上の意味はほとんど変わらないのに、話者の立ち位置だけが動く。
語末の子音にも触れておきます。「げ」は有声の破裂音を頭に持つ拍で、発音するには口の中でいったん息を止め、それから開かなければなりません。止めて開くという動作が入るぶん、語の終わりに区切りの目印が置かれます。「そう」の末尾は長音で、そこに子音がない。止める場所を持たないまま母音が伸び、次の語へなだらかに続いていきます。朗読を思い浮かべると分かりやすく、後者は後ろの語と癒着しやすく、前者は癒着しない。擬音語や擬態語の研究では、濁音が量の多さや動きの重さと結びつくとしばしば指摘されます。その感覚をここへ持ち込むなら、四拍の側の語末はわずかに重い。ごく軽い推量のつもりで置いた一語が、思ったより判定めいて響くことがあるのは、意味ではなく音の側の事情かもしれません。
この接尾辞は生産的で、寂しげ、悔しげ、楽しげ、物憂げ、不安げ、と系列を作ります。形容詞の語幹に直接つくため、語幹が短ければ全体が三拍や四拍に収まる。短さは連体修飾として使うときに効きます。悲しそうな顔で、より、悲しげな顔で、のほうが一拍短く、その一拍のぶんだけ文のテンポを乱さない。連体修飾は文の途中に挿し込まれるので、長さがそのまま読みの停滞時間になるからです。ただし系列の語を近い場所に並べると、同じ音型が反復して耳につきます。二つの段落に三つも四つも同じ接尾の語が出てくると、内容の違いより音の同じさのほうが前に出てくる。系列が生産的であることは、書き手にとって便利であると同時に、単調さの原因にもなります。
実務としての結論はここに落ちます。台詞の直前や直後に置く修飾は、拍数が長いほど読点を呼び、間が伸びる。応酬の速い場面に五拍の修飾を挟むと、そこだけ速度が落ちて、緊張が抜けます。逆に、場面を落ち着かせたいなら長いほうを選べばいい。意味がほとんど同じ二語のあいだで迷ったとき、判断の基準として最後に残るのは、音の長さです。声に出して読まなくても、黙読の速度はこの拍数に従っている。