悶える

【もだえる】動詞

使い分けの視点

「悶える」は原因を目的語に取らず、苦痛の内側で続く身体運動を描きます。「のたうつ」は大きな動きを、「呻吟する」は声を、「煩悶」は精神の逡巡を強めます。原因を説明しすぎず、手、背、息の具体で閉じた苦しみを見せます。

同義語

同品詞の類義語

苦しむ
のたうつ文芸的
呻吟する文芸的

類義句

同品詞の慣用的言い換え

身をよじる
胸を掻きむしる文芸的
歯を食いしばる

直喩変換

「Xのような」「Xみたいに」形式の直喩

罠にかかった獣のような文芸的
燻された蛇のような文芸的
炎に炙られるような文芸的

副詞的言い換え

情態副詞・形容詞の副詞的変換

苦しげに
七転八倒して文芸的
あえぎあえぎ文芸的

体言的言い換え

用言を体言に変換

苦悶文芸的
煩悶文芸的
呻き

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

身を捩らせる文芸的
唸り声を上げる
胸を抱え込む

関連語を探す

語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

外への出口がないエッセイ関連

例文: 外への出口がない苦痛として描くため、語り手は倒れた兵の指の動きだけを追った。

対象を取れない動詞——「悶える」の文法的な孤立

まず、言えるかどうかを並べてみます。「悶えた」は言える。「悶えている」も言える。「彼を悶えさせた」も言える。しかし「痛みを悶えた」は言えない。この動詞はヲ格を取りません。目的語を持たない、つまり誰にも何にも働きかけない動詞です。使役形でようやく外から手を伸ばせるようになりますが、そのときも動作の主体は苦しむ側のままです。対になる他動詞も持っていません。立つに対する立てる、倒れるに対する倒す、といった自他の組をこの語根は作らず、他人を苦しめる側の動作は最初から語彙になっていない。

格の側をもう少し見ると、ニ格とデ格が両方使えます。「嫉妬に悶える」「痛みで悶える」。並べると前者のほうが内側から来る感じがして、後者は外的な原因を指すように読めますが、「痛みに悶える」も普通に言えるので、この区分けは硬い規則ではないようです。ここは決めきれないまま置いておきます。ただ、ニ格を取ったときにその名詞が原因であると同時に、悶える者が浸かっている場所のようにも読める点は残しておきたい。嫉妬に、というときの「に」は、水に、火に、というときの「に」と手触りが近い。

意志が働いているかどうかを測る手続きを当てると、性格がもう一段はっきりします。命令形にする、意向形にする、「〜たい」を付ける。三つとも通れば、その動作は選べるものだということになります。感情表出の隣人である「泣く」は全部通ります。泣け、泣こう、泣きたい。同じ操作をこの動詞に施すと、いずれも据わりが悪くなる。命じる形も、決意する形も、望む形も、言えないわけではないのに、言った瞬間に発話者のほうが不自然な要求をしているように響きます。禁止の形でも事情は同じで、泣くなという常套句に相当する言い方が、この語では日常の会話に定着していません。制御できない出来事を指すという意味の性質が、活用形の可否として文法の表面に出ている。

複合語を見ると、この動詞が対象を取れない不便を、別の方法で埋めている様子がうかがえます。「身悶える」。ヲ格に置けないはずの身体を、語の内部に取り込んでしまった形です。「悶え苦しむ」「のたうち悶える」も同種で、単独では細部を持てない動詞に、隣の動詞が身体の運動を補っている。文法的に痩せた語の周りに、複合が集まってくる——足りない部分は、外から足されるほかない。同じ字を核にした漢語も、和語動詞が引き受けられなかった区別を分担しています。悶絶は苦しんだ末に気を失うところまでを一語に畳み、煩悶は思い悩む状態のほうへ寄り、悶々は畳語にしてサ変を付けるという別の構えを取る。終端と状態と持続が、語種をまたいで振り分けられている。

アスペクトの偏りもあります。無標の「悶えた」は、読むと苦しみの始まりを指しているように受け取られやすく、持続を書きたい場面ではたいてい「悶えている」が選ばれます。継続の解釈が既定になっている動詞だ、と言いたくなるところです。ただ「一瞬悶えた」は問題なく言えるので、継続専用ではない。強い制約ではなく、無標で持続を読ませる傾向がある、という程度に留めるのが正確でしょう。「ている」の読みも一方に寄ります。「割れている」「立っている」なら、動作が終わったあとの状態が残っているという読みが立ちますが、この動詞の「ている」は進行としてしか読めない。終わったあとに残る形が身体に何もないからです。始まりも終わりも外から見えず、続いている最中だけが観察できる。

こうして格・複合・アスペクトを見てくると、この動詞の性格が一つの方向に揃っていることに気づきます。働きかけの相手を持たず、原因は浸かる場所として与えられ、持続が既定で、身体の細部は複合に頼る——文法のあらゆる面で、外への出口がない。閉じられている、と言ってもいい。「悶」という字が門と心からできていることは、字源説を措いてもここに響いてきます。

その閉じ方は、書くときの視点を強く制約します。苦しんでいる人物は、誰にも何も要求していません。だから同じ場面にいる別の人物は、話しかけることも助けることもできず、ただ見ているしかない。この動詞を地の文に置いた瞬間、その場は「苦しむ者」と「見ている者」に分かれます。会話で場面を進める設計とは、はっきり相性が悪い。逆に言えば、対話を断ち切りたいときに、この一語は確実に効きます。使いどころは、文法がすでに教えてくれています。

文: hakadoru.ai 編集部

エディタで直接置換して執筆を加速

SaaS エディタではシソーラスの結果をワンクリックで本文に反映できます

無料で始める →