「火をつけたが、燃えなかった」なら矛盾しません。濡れた薪を思い浮かべれば済む話です。ところが「燃やしたが、燃えなかった」となると、途端に据わりが悪くなる。それでも完全には排除しきれない気がして、しばらく口の中で転がしていました。他動詞の過去形は、対応する自動詞の成立をどこまで含意するのか。日本語では結果まで達しない解釈が許される場合があると指摘されてきた領域で、決着した話ではないので断定は避けます。ただ、据わりの悪さの正体を測る道具のほうは、論理の側にひととおりそろっている。
含意と含みを分けるところから始めます。含意は取り消せない関係で、含みは取り消せる。「燃え尽きた」は「燃えた」を含意します。逆は成り立たない。この一方通行が語彙の内側に組み込まれていて、比喩へ持ち出したときの落差を作る。人について「燃え尽きた」と書けば、燃えていた期間の存在が自動的に持ち込まれます。しかもこれは前提として振る舞う——「彼は燃え尽きていない」と否定しても、かつて燃えていたことのほうは生き残る。否定の下をくぐり抜けられるかどうかが、含意と前提を見分ける手掛かりになります。
前提かどうかを試す道具は、否定のほかにもいくつかあります。同じ文を疑問にし、条件節に入れ、可能性を言う助動詞の下へ置いてみる。燃え尽きたのか。燃え尽きたなら。燃え尽きたのかもしれない。どの形へ移しても、かつて燃えていたという部分だけは揺れずに残ります。文全体が問われても仮定されても、その部分は問いの外側にいる。これが前提の振る舞いです。取り消せる含みのほうは、同じ環境をくぐらせると簡単に消えます。差は実務にも効いてきて、人物の現在だけを疑わせたい場面でうっかり前提つきの語を選ぶと、疑いが立ち上がる手前で過去のほうが確定してしまう。読者は、否定された文からも、否定されなかった部分を受け取ります。書き手が消したつもりでいるのは、たいてい消えていない側です。
否定の作用域をもう少し見ます。「まだ燃えていない」と「もう燃えていない」は、否定が及ぶ範囲は同じでも、副詞がアスペクトのどちら側を指すかで正反対になる。さらに気になるのは、過去否定が、燃えることの期待された文脈を要求するように見えることです。ここで立ち止まる。「石は燃えなかった」は奇妙なのに、「石は燃えない」は自然だからです。だとすると要求しているのは否定そのものではなく、テンスのほうになる。過去形は個別の出来事を指し、個別の出来事の否定は、それが起こりえた場面の存在を必要とする。恒常的な性質の否定には、その制約がかからない。
含みの側にも、系統立った作られ方があります。同じ尺度の上に強弱の表現が並んでいるとき、弱いほうを選んだという事実そのものが、強いほうは成り立たないという含みを生む。焦げた、燃えた、燃え尽きた。この並びの真ん中を取って「燃えた」と言えば、聞き手はふつう、燃え尽きてはいないと受け取ります。ところがこの含みは後から取り消せる。「燃えた。というより、燃え尽きた」と続けても、話者が前言を撤回したことにはならない。含意ならこれは撤回になります。強い表現を選ばなかったという行為から生まれる含みと、語の意味そのものに埋め込まれた含意。どちらも言っていないのに伝わりますが、消しゴムが効くかどうかで別種です。人物の証言を書くとき、この違いは嘘と黙秘の分かれ目にもなります。
反実仮想を置くと、この構造が物語の道具に変わります。「あのとき燃えていたら」という文は、前件が実際には成り立たなかったことを含みとして運ぶ。条件文の形をとりながら、読者に伝わっているのは条件ではなく事実のほうです。作中人物にこの形を言わせると、起きなかったことの輪郭が、起きたことよりも鮮明に立つ場合がある。反実条件は、否定文を使わずに否定を届ける経路になっている。
そして最後に、この動詞が自動詞であることに戻ります。主語の位置に立つのは火ではなく、燃やされる側の物です。薪は自分の意志で燃えたりしない。人を主語に据えて比喩に使うとき、この意志のなさが黙って一緒に持ち込まれます。誰かが「燃えている」と書かれた時点で、その人物は炎を自分で調節できない側へ置かれている。制御している人物を書きたいなら、他動詞のほうを取るしかない——語彙に埋め込まれた含意関係は、書き手が意識しているより多くのことを、先に決めてしまっている。