火という字を二つ、上下に積む。それだけで炎という字になります。会意——意味を持つ部品を組みあわせて新しい意味を作る、漢字のもっとも素朴な造字法です。火が重なれば燃えあがる、という発想には解説の余地がほとんどない。一方で表外字の「焔」のほうは形声で、火偏が意味を、旁が音を担っています。同じ現象を指す二つの字が、まったく違う原理で作られている。この非対称は、造字の時期も動機も一つではなかったことの痕跡です。
和語の側を分解すると、別の絵が出てきます。「ほ」は火の古い形で、ほかげ、ほむら、ほくちといった語に化石のように残っている。「ほのお」については、火の穂、つまり「ほ・の・ほ」がもとだとする説が広く紹介されています。断定はできませんが、この説が示唆するものは無視しにくい。穂は稲穂の穂、先が細く尖って揺れる形のことです。つまりこの語が最初に捉えたのは、熱でも威力でもなく、輪郭だった。地面から立ちあがって先細りになり、風で傾ぐ、あの形です。
比況を作る「ような」のほうも、来歴をたどると形に行き着きます。古語の「やうなり」は漢語の「様」から生まれた助動詞で、その前は「ごとし」が比喩を担っていました。「様」はありさま、かたち、姿のことです。何かに似ていると言うための道具そのものが、姿を意味する名詞から作られている。だからこの句は、二重に形の語だと言えます。炎という視覚的な輪郭を、姿という意味の語で受け止めている。
漢語の側は事情が違います。炎暑、炎天、炎熱——熟語を並べると、こちらの重心ははじめから温度にある。字が火を二つ積んだ形である以上、当然といえば当然です。積み重ねが表しているのは輪郭ではなく強度だからです。つまり日本語は、形から出発した和語と、熱から出発した漢語を、同じ一字の表記のもとに重ねて運用してきたことになる。訓で読むか音で読むかで、語が向いている方向が変わる。ふだん意識されないこの二重性が、比喩に持ちこまれたときに効いてきます。
ところが実際に書かれるとき、この句が運ぼうとしているのはたいてい熱と勢いのほうです。炎のような怒り、炎のような情熱——ここで喚起されているのは温度であって、先細りの輪郭ではない。語源が形にあることと、現用が熱にあることのあいだには、はっきりした断層がある。ここで自分の観察に異議を挟んでおきたいのですが、語源が現在の用法を規定するわけではありません。語は出自から自由になれる。だから「本来は形の比喩だ」と言い張るのは、それ自体としては何の主張にもならない。
意味があるのは、断層のほうを資源として使えるという点です。熱の比喩としてのこの句は、使い尽くされて手垢がついています。読者は文字面を通過するだけで、何も見ない。だが輪郭のほうへ引き戻すと、まだ像が立ちます。根元は青く、先へ行くほど薄れて透ける。まっすぐには伸びず、常に片側へ傾いでいる。切れて宙に浮いた先端が、すぐに消える。こうした細部を一つ添えるだけで、比喩が温度のラベルから視覚の記述に戻る。擦り切れた比喩を捨てるのが一つの手なら、擦り切れる前に何を見ていたのかまで戻るのが、もう一つの手です。