水が一定の速さで落ちていくことを、そのまま時間の計測に使った器械があります。漏刻と呼ばれる水時計で、日本書紀にその記事があり、六月十日の時の記念日はこれに由来するとされています。器械の名の頭に立っているのが「漏」です。ここでの漏れは、失敗ではありません。制御された欠損、つまり一定の速さで内側から外へ出ていくことそのものが、装置の機能になっている。この字の履歴の出発点に、そういう均質な流出の像があることは、後々まで効いてきます。
字の形は、さんずいに屚を組み合わせたものです。屚は、屋根を表す部分の下に雨が来ている形とされる。つまりこの字が写しているのは、空から降る雨ではなく、屋内に入ってきてしまった雨です。視点が最初から内側に置かれている。同じ現象を外から見れば「降る」であり、内から見れば「漏る」になる——語の選択が、そのまま観察者の位置を決めてしまう種類の字です。この内側性は、後に情報や感情に転用されてからも失われませんでした。秘密が漏れるとき、私たちが立っているのは常に容器の中です。
和語の側を見ると、古くは四段活用の「もる」があり、これに対応する他動詞が「もらす」でした。自他の対がきれいに残っているのは重要な点です。同じ出来事を、動作主を立てて言うか、立てずに言うかを選べる。「秘密を漏らす」には責任の所在があり、「秘密が漏れる」には無い。文法的な選択が、そのまま倫理的な負荷の有無を切り替えてしまう。ここに複合の「出る」が足されると、方向だけが追加されます。漏れ出るは、自動詞に自動詞を重ねた形で、動作主を最後まで立てないまま、内から外へという矢印だけを明示する。責任は空欄のまま、運動だけが具体になる。動作主の欄を空けたまま出来事だけを書けるというのは、日本語の自動詞が持つ強い権能です。
この和語には、もう一つ興味深い残り方があります。四段の「もる」は、現代語では単独の動詞としてほとんど使われません。ところが「雨漏り」という名詞のなかには、そのままの形で残っている。屋根から水が入る場面という、字の成り立ちに最も近い用法だけが、名詞に固まって生き延びたことになります。一方、日常の動詞の座は下一段の「もれる」が占めました。同じ語根が、化石として名詞に残る系統と、活用形を変えて使われ続ける系統に分かれたわけです。名詞のほうは意味を狭めて動かなくなり、動詞のほうは声にも光にも情報にも掛かるところまで守備範囲を広げていきました。動かない側が語源に近い像を保管し、動く側が新しい対象を取り込んでいく。語の履歴には、しばしばこの役割分担が見られます。
末尾の「ように」も、成り立ちを見ておく価値があります。比況の助動詞は「様」という漢語の名詞に由来するとされ、もとは有り様、姿かたちを指す語でした。比況は本質的に留保を含みます。そう見えた、という報告であって、そうであったという断定ではない。したがってこの句は二重に距離を取っている。まず自動詞によって動作主を消し、次に比況によって断定を消す。誰のせいでもなく、しかも本当にそうだったとも言っていない。四拍のうしろに、二段構えの逃げ道が畳み込まれている。
この句が実際に付くのは、声、笑い、涙、言葉、吐息といったものです。どれも容器の内側にあり、意志の外で外へ出うるものばかり。裏を返せば、この修飾を使った瞬間、その人物は自分の内容物を管理しきれていない存在として描かれます。一度なら効きますが、同じ人物に三度重ねると、亀裂の入った容器がただ置かれているだけになる。漏刻の水は、落ちきってしまえば計測が終わる。流出は続くあいだだけ時間を刻むのであって、流出しっぱなしの器は、もう何も計れません。刻み続けるためには、出ていく量が細く保たれていなければなりません。
付かない側を確かめておくと、条件はさらにはっきりします。血、雨、水道の水にこの句は使いにくい。量が多く、流れる道筋が外から見えていて、しかも出てくること自体が驚きにならないからです。逆に言えば、この修飾が要求しているのは、量の少なさと経路の不可視、そして本来は出ないはずだという前提の三つになります。三つ揃った場面でだけ、四拍の逃げ道は働きます。揃っていないところに置けば、器の比喩は空回りして、ただ言葉が長くなるだけです。屋根の下で雨に気づいた人が最初に見るのは、天井の一点の染みであって、降っている雨そのものではありません。