締めきったはずの蛇口の音を数えたことがある人なら、間隔が一定ではないことを知っています。三秒、四秒、また三秒。落ちる大きさも揃わない。この不揃いさが、水の落下という現象のいちばん手触りのある部分です。ところが、比喩としてこの語が使われる場面を並べてみると、その不揃いさが必ずしも運ばれていないことに気づきます。
語の意味を成分に分けて考えると、この動詞にはおおよそ、液体であること、少量であること、重力に従って下へ向かうこと、表面から離れること、そして断続的であること、が含まれます。プロトタイプは水滴で、周辺に汗や血が並ぶ。連用形に「ように」を付けて比喩化したとき、この成分のすべてが等しく前景に出るわけではありません。文脈のほうが、どれを立てるかを選んでいる。落下の描写に添えれば断続が立ち、甘さや香りに添えれば飽和が立ち、歌い方に添えれば間隔と減衰が立つ。同じ形が、隣に置かれた語によって別の成分を差し出している。
上位語との関係を見ると、この選択の余地がどこから来ているかがはっきりします。落ちる、垂れる、こぼれる。これらはより広い意味を持つ語で、この動詞はその下に位置します。下位語は上位語の意味をすべて含んだうえで、様態の指定を追加で背負っている。追加のぶんだけ情報量が多く、そのぶん置き換えがきかない。上位語なら文脈が補ってくれるところを、下位語は自分で言い切ってしまう。焦点の選択肢が広いのは、そもそも指定している内容が多いからです。多く言う語は、多く選ばせもする。
これを多義と呼ぶべきかどうかは、少し迷うところです。辞書に別の語義として項目を立てるほど、意味は分裂していません。むしろ一つの意味構造のなかで、照明の当たる場所が動いていると考えるほうが実態に近い。焦点移動と呼ばれるこの現象は、比喩表現ではごく普通に起きます。連体形にした場合と比べると差はさらに見やすくなる。連用の形は出来事の様子を修飾し、連体の形は個体の属性を修飾する。同じ意味成分を持ちながら、着地する先が事態か事物かで、読者が思い浮かべる時間の長さまで変わります。
そう整理した途端に、別の疑問が出てきます。焦点は本当に自由に動くのか。動かない成分がありました。「少量」です。比喩に使われる場面を思い返しても、量の少なさが前景に出ている例はほとんど見当たらない。それどころか、濃さや過剰を言うために使われることのほうが多い。物理的には一滴は少量なのに、比喩になると少なさは脱落し、しばしば反対の含みさえ帯びる。ここに、比喩が何を持ち出し何を置いていくかの線が見えます。持ち出されるのは、感覚で確認できる成分——落ちる、濡れる、間隔が空く——であって、数量を測る成分ではない。測定は目の仕事ではなく計算の仕事だからでしょう。
実作に引きつけると、この語を使う前に決めておくべきことは一つです。断続を書きたいのか、飽和を書きたいのか。両方を同時に狙うと、読者の中で像が二重になり、どちらも輪郭を失います。断続を立てるなら、隣に時間を置く。間、沈黙、次の一つまでの長さ。飽和を立てるなら、時間を書かず、面と広がりを書く。同じ五文字が、隣接する一語で別の器官に届く。そこまで確かめてから置けば、この語はまだ十分に働きます。