「二人は駅で会った」と「二人は駅で出会った」。一字の差ですが、読み手が受け取る時間の幅は同じではありません。前者は約束が果たされた記述として読めます。後者はそうは読めない。何かが偶然に近づいてきた気配が残ります。語の形だけを見れば、加わっているのは移動を表す「出る」ひとつです。人と会うという行為に、外へ出ることは論理的には必要ない。家の中でも人には会えます。それなのに、この一字が入るだけで出来事の性質が変わってしまう。何が起きているのか、しばらく考えてみる価値はありそうです。
認知言語学には、抽象的な事柄が空間の絵を借りて表現されるという見方があります。概念メタファーと呼ばれるもので、人生を旅として語る言い方はその代表です。日本語でも「岐路に立つ」「回り道をする」は説明なしに通じます。この枠で眺めると、問題の一字が運んでいる絵はかなり具体的になります。二つのものがそれぞれ別の経路を進み、どこかの一点で交差する。古い言い方の「行き合う」が同じ構造をしているのも、おそらく偶然ではありません。同じ接頭要素を持つ動詞群——出かける、出向く、出くわす——は、どれも自分の領域の外側を前提にしています。会うことが空間上の交差として捉えられているからこそ、移動の動詞が意味を持つのだと考えられます。
ところが、この絵はすぐ破れます。「初めてその本に出会った」「思わぬ難問に出会う」。本は動きませんし、難問が待ち伏せしているわけでもない。ここで一度立ち止まる必要があります。動いているのは主体の側だけで、対象は経路の上に置かれた標識か障害物のように扱われている。「壁にぶつかる」と同じ構図です。メタファーそのものは壊れていない。壊れているのは相互性のほうだ。そしてこの違いは助詞に現れます。相手が人なら「彼と」も「彼に」も言えるのに、難問に「と」は使いにくい。「と」は双方が動いた読みを、「に」は一方が触れただけの読みを引き受けています。空間の絵の対称性が、そのまま格助詞の選択に写っている。
もうひとつ、この動詞は意志形を嫌います。「明日三時に会おう」とは言えても、「明日三時に出会おう」とは言いにくい。予定表に書けない動詞なのです。出会い頭という言い方が交通の場面に定着しているのも、この性質と地続きでしょう。見通しの悪い角、落としきれない速度、互いに相手を認識していない数秒。交差点の絵がほとんどそのまま残っています。偶然という抽象語を一度も使わずに、偶然を含意できてしまう。名詞形のほうを見ると、この自立性はさらにはっきりします。「出会い」は単独で一つの出来事を指せるのに、「会い」は名詞として立ちません。交差という絵を持っているぶん、輪郭のある出来事として切り出せるのだと考えられます。
そう考えると、作中でこの語を選ぶことは、その場面から計画性を差し引く操作になります。何十話も相手を捜し続けた人物がついに姿を見つける場面で「出会った」と書けば、積み上げた追跡が帳消しになる。捜していたのだから、それは交差ではなく到達です。逆に、伏線をほとんど張らずに二人を同じ画面へ並べたいときには、動詞ひとつで偶然の色がつきます。空間の比喩は位置関係だけを運んでくるのではない——誰がどれだけ意図していたかという、視点の情報まで一緒に運んできます。