ほんの気紛れで、と人は言い訳をします。買うつもりのなかった本、降りるはずのなかった駅——「で」は原因を受ける格助詞ですから、ここでは名詞として働いています。ところが「気紛れな猫」と言えば形容動詞の連体形になり、「〜に」の形を取れば副詞的にもふるまいます。一つの語が、文のなかの置き場所をほとんど選ばないのです。
成り立ちを見ると、後半の「紛れ」は動詞「紛れる」の連用形が名詞になったものです。人混みに紛れる、どさくさに紛れる。まざって見分けがつかなくなるという意味の動詞に「気」が乗った複合語ですが、奇妙なことに、句としての「気が紛れる」とは意味がずれています。「気が紛れる」は心配事から注意が逸れて楽になることで、移り気の意味を持ちません。部品を共有しながら、複合語は句の意味を相続せず、別の意味を勝手に育てました。語形成の歴史では珍しくない現象ですが、これほど身近な語で起きている例はそう多くありません。
文法のふるまいには、逆に欠けがあります。「気疲れする」「気後れする」とは言えるのに、「気紛れする」とは言えません。同じ「気+動詞連用形」の鋳型から出た語なのに、サ変動詞になれるかどうかが割れています。動詞に戻る道を失った結果、この語は名詞と形容動詞の領分だけで暮らすことになりました。品詞の分布は個々の語の歴史の産物であって、型が同じだから同じ活用ができるという類推は、日本語ではしばしば裏切られます。
同じ「気」の一族で、心の動きやすさを表す語をもう少し並べてみると、この語の立ち位置が見えます。「移り気」は名詞と形容動詞にまたがり、対象を選ばない移動一般を指します。「浮気」はもともと心の浮つきやすさ全般を指していましたが、現代語では恋愛関係の裏切りという特定の一領域へと意味が狭まり、「する」を取って動詞化までしました。同じ仲間でありながら、一方は意味を狭めることで動詞への道を開き、一方は広い意味のまま動詞への道を閉ざしています。文法上の可能性と意味の守備範囲とが、語ごとに別々の取引をしてきた格好です。
主語の選び方は、打って変わって緩やかです。「気紛れな天気」と言えますし、同じ言い方は春の空にも、山の霧にも、通信の調子にも付きます。「短気な天気」とは言えないことと比べると、この差は示唆的です。短気が内面の気質を指すのに対し、こちらが指しているのは「予測がつかない挙動」という、外から観察できるパターンのほうだからです。観察できるものなら、心があろうとなかろうと主語になれます。共起の緩さが、意味の重心は内面ではなく軌道にあると教えてくれます。
品詞をまたぎ、無生物にもかかり、それでいて動詞にはなれない。置き場所の自由と欠落が同居するこの文法的な輪郭は、当てにならなさという語義と妙に釣り合っています。ただし小説で人物にこの札を貼るときは、注意が一つ要ります。この語が保証するのは外から見た軌道の乱れだけで、内面の説明にはなっていません。なぜ逸れるのかを書く仕事は、貼ったあともまるごと残っています。